攘夷派の急先鋒であった長州藩は、攘夷実行が 解禁すると関門海峡にて6回に及ぶ、攘夷戦を展 開した。 長州藩の攘夷戦期間は、1863年(文久3年)5月 〜1864年(元治元年)8月まで行われ、欧米列強の 報復攻撃にて大敗し、攘夷思想は完全に打ち砕か れた。その後は、攘夷思想から倒幕思想へと思想 の転換が成されていき、戊辰戦争へと突入していく のであった。 6回行われた長州藩の攘夷戦は、最初のうち商船 であったり、不用意な軍艦であったりと諸外国船の 不意を突く攻撃で外国船を追い払うことに成功して いる。 しかし、1863年(文久3年)6月5日の第五次攘夷戦 では、フランス軍艦二隻が下関砲台を攻撃し、陸戦 隊が上陸。砲台を線占拠し、付近の村々を焼き払 った。長州藩側は領土の一部を外国人に占拠され たことに驚き、藩兵1000名ほどをかき集め、打ち払 おうとした。 だが、海上で待機していたフランス軍艦の艦砲射 撃を受け、戦いにならず散々な敗北を喫した。むろ ん、兵団の装備や戦法に大きな差があったことが、 藩兵の敗北原因であったが、敵側に一矢も報いる ことができずに弱者を演じてしまったことで、大いに 民衆の不評をかった。 |