西欧軍隊に長州藩兵が大敗したという報せは、 山口にいた藩主・毛利敬親のもとに届いた。この 報に驚き憤慨した、敬親は知恵者・高杉晋作を召 し出し、善後策を問うた。 すると晋作は、武士団の士気に問題ありと述べ、 民兵組織にて別働隊を編成するのがよろしかろう と進言した。今回の藩兵敗北は、民衆たちから大 いに不評をかっているのだから、藩兵組織に不満 を抱く血気盛んな民衆の中から募兵し、民衆の反 発をやわらげることが賢明との考えに敬親は賛同 し、高杉に民兵組織の編成を許可した。 ここに高杉晋作は歴史に燦然(さんぜん)と輝く 画期的な民兵組織部隊・奇兵隊を結成するので あった。 民兵結成の任務を受けた高杉は、早速下関へ と足を運び、勤王派商人として知られる豪商・白石 正一郎の協力を取り付けて、白石邸を本拠地に 民兵編成に着手した。 すでに長州藩内には農民を中心とする部隊組織 の構想があったが、士農工商の差別をつけずに 同一集団として、実力本位の組織は初めてであ った。 高杉は「殉国の志ある者は参加せよ!」と呼び かけ、藩内に広く布告した。この布告に続々と応じ る者が出て、最終的には、入隊者数は600名を数 えた。 入隊者の打ち分けは、大部分が下級武士と農民 が半々で、わずかに町人・神官・僧侶などが含ま れた。下級武士とはいっても直参は少数で、ほと んどは又者(またもの)であった。 ※又者とは、家来の家来。又家来。陪臣(ばいし ん)。雑卒(ざっそつ)のこと。 ※雑卒とは、下っ端の兵隊。雑兵(ぞうひよう)の こと。 奇兵隊の名は、藩の正規兵と対称的な部隊の 意味と規定の戦術に捕らわれない奇策を駆使す るゲリラ部隊の意味を兼ねて、名付けられた。 最初の本営は、白石邸であったが、入隊者が 増えるとすぐに手狭となり、壇ノ浦に近い阿弥陀 寺(あみだじ※現在の赤間神宮)に転居した。 移転した際の奇兵隊の隊員数は300名を数え、 宿舎の面や組織運営なども考慮するとこれ以上 は一応の限界と見て、奇兵隊のほかに諸隊を設 けることで入隊者数の増加問題に対処した。 諸隊は続々と結成され、義勇隊(ぎゆうたい)・ 御楯隊(みたてたい)・集義隊(しゅうぎたい)・荻野 隊(おぎのたい)・報国隊(ほうこくたい)・八幡隊( はちまんたい)・力士隊(りきしたい)・第二奇兵隊 ・遊撃隊(ゆうげきたい)・鴻城隊(こうじょうたい)・ 鋭武隊(えいぶたい)・整武隊(せいぶたい)・振武 隊(しんぶたい)・精兵隊(せいへいたい)・南園隊 (なんえんたい)など限りなく諸隊数は増えてい った。 諸隊の兵員数は、日ごとに増えていき、1864年 (元治元年)ごろには4000人余りに達するという 大盛況振りであった。 民兵組織で結成された奇兵隊であったが、藩主 の君命を受けて、結成された精鋭部隊だという 気概が強く、藩兵の正規部隊である先鋒隊とは、 激しくいがみ合うようになった。 先鋒隊は自分たちが藩兵の正規兵であるという 気位の高さから「百姓や町人が集まって、何がで きるか」と奇兵隊を蔑視していた。 奇兵隊が結成されて二ヶ月ほどたった頃から、 気勢の強い両者は、対立を深め、刃傷沙汰になる 騒動を起こした。 これによって、奇兵隊総督の高杉晋作が更迭 され、一応の抗争沙汰は解消された。その後の 奇兵隊総督には、河上弥市(かわかみやいち※ 生野の乱で七卿の一人・沢宣嘉に従って戦死)、 赤根武人(あかねたけと)、滝弥太郎(たきやたろ う※明治時代に判事となる)、山県有朋と順々に 交替が行われた。 |