下関戦争後の思想転換



幕末維新 出来事一覧へ












下関戦争後の講和に高杉、活躍す!


 奇兵隊を結成した目的は、外国軍艦の来襲に
備えるためであり、その初陣は、結成1年2ヶ月後
の1864年(元治元年)8月であった。
 この時、欧米列強は、四国連合を組み、艦隊を
派兵してきた。この迎撃に奇兵隊は出動し、壇ノ浦
を守備した。上陸してきた連合艦隊の陸戦隊と激
しい戦闘となったが、結果は散々な敗北であった。
 敵軍は兵力2600に西洋兵器を装備して、近代的
な戦術を駆使するのだから、結成まもない奇兵隊
では、兵たちの錬度や装備に差がありすぎた。
 民兵組織の気勢の強さだけでは、欧米列強の
軍隊に太刀打ちできないことを改めて、思い知ら
された一戦だった。

 この激戦の時に民兵組織創始者の高杉は京都
へ脱藩を図った罪で野山獄(のやまのごく)に入れ
られていた。長州藩はこの戦いで反撃する余力を
失い、攘夷の思想が間違っていたという挫折感か
ら、欧米列強との講和をすることとなった。
 この重要な講和の使者に高杉が起用された。藩
内の中で強硬な外国人と対当に渡り合える度胸の
ある人物は、高杉晋作をおいてほかにいなかった
のである。

 高杉は、宍戸刑馬(ししどぎょうば)と名乗って、
家老と偽り、欧米連合艦隊の旗艦・ユーリアラス号
に乗り込んだ。高杉のいでたちは、黄色地に大紋
を入れた礼服に黒の烏帽子姿という目の覚める
ような颯爽としたいでたちだった。
 講和の使者とはいえ、状況は降伏の使者であっ
たが、高杉の振る舞いは威風堂々としていて、
講和の場に居合わせた通訳のアーネスト・サトウ
は「まるで魔王のように傲然(ごうぜん)と構えて
いた」と記している。

 この時、結ばれた条約は、
 ●海峡を通過する外国船を親切に扱うこと。
 ●石炭・食糧・薪水(しんすい)その他の必需品
   を好意をもって、提供すること。
 ●天候が悪化して、船舶の航行が危険な場合
   は、乗組員の上陸を許可すること。
 ●海峡には一切、砲台を築かないこと。
 といった内容だった。
 ついで、外国側は長州藩の藩領の一部を租借
(そしゃく)したいと申し出た。外国人居留地を築い
て、何かと便利に活用しようと考えてのことである。
しかし、高杉はこの申し出を頑として、承諾しなか
った。外国側が不快になって、強硬に租借要請を
しようとすると、高杉は「そもそも高天原の頃から
〜云々」と声高に述べ出し、その場にいた者がみな
あっけに取られる事態となった。
 高杉の長々しい講釈がはじまって、外国側はこれ
に煙巻かれて、租借要求はうやむやに終った。
もし、高杉の租借阻止が無かったならば、日本は
中国の上海のような事態を招いていたかもしれな
かった。上海は外国人の租借地としてはじまり、や
がては、強引に外国側の植民地のようになってしま
った経緯がある。
 高杉は上海へ渡海して、上海の実状を知っており
、外国人が我が物顔で街中を闊歩し、中国人はま
るで、外国人の家来のような扱いを受けていたこと
に大いに危機感を抱いていた。
 それゆえ、外国側が長州藩領内に租借地を設け
たいと申し入れてきた時、すばやくこれを拒絶した
のであった。上海の二の舞を踏むまいと度量の座
った対当の立場での講和を成し遂げた高杉の功績
は賞賛に値する。






長州、思想転換を成す!


 講和後の長州藩の思想転換は、必至の成り行き
だった。攘夷派の中心的存在だった長州藩が他藩
に先んじて欧米列強と戦ったが、気力だけで成立
する戦況ではなかった。
 近代戦は、人間の力量だけに頼る古来の合戦
とは格段に違いがあった。兵器を充分に活かした
近代戦術にも目を見張るものがあり、単に飛び道
具と言えども、有効な戦果を挙げるには、計算され
た部隊配置と機動性を駆使しなくてはならない戦
術であり、その事を高杉たちは欧米列強と戦って、
初めて知ったのだった。

 敗戦後の長州藩の行動は素晴らしかった。敗北
したことで、全てを投げ出す事無く、何が悪かった
のか?と敗北の原因をトコトン突き止めようと考え
抜いた。そして、見出した一つの答えが、欧米列
強から徹底的に学び直すことだとわかった。
 欧米列強の強さの秘訣を学び、再度、軍備編成
をし直すことが、立ち遅れた日本には必要だと悟
ったのだ。欧米諸国に立ち遅れた分を取り戻し、
国際社会で生き残っていくには、欧米列強と肩を
並べる国力をつける以外に日本存続の道はない
と確信した。
 欧米列強から学ぶ姿勢が必要となった時、自然
と攘夷思想はなくなっていった。それは、長州藩
が戦った欧米連合艦隊の姿から知った国際情勢
の仕組みに起因する。
 欧米列強は、それぞれ国力を向上させようと互
いに張り合いながら、時には戦争を繰り広げたり、
時には共同体勢を取るなど柔軟でかつ、他国に支
配されずに国は栄えていた。
 このことは、日本にとって最も望ましい存在であ
り、アジア諸国が欧米列強に飲み込まれ、次々と
植民地となった二の舞を日本が踏まずに済む唯
一の国営モデルであった。
 まずは国力を欧米列強に並ばせ、ついで欧米列
強と同じ兵団を組織すれば、欧米列強からの脅迫
に屈することなく、国を富ますことができると長州
藩は知ったのである。
 これが国際情勢の真の姿だとするならば、日本
国内でいつまでもいがみ合っている場合ではない
のだ。欧米列強のように国家統一を成し、富国強
兵の国営政策をもって、はじめて欧米列強の仲間
入りを果たせ、屈辱的な立場を味わう事無く済む
のである。
 欧米列強と戦争した長州藩と薩摩藩だけが、
このことに気付いた。このことに気付かない幕府
は、富国強兵を国営政策と成すための第一歩で
ある国家統一を成し遂げるためには、不要な機関
とわかり、長州藩は他藩に先駆けて、尊王倒幕の
思想を掲げたのであった。
 ”尊王倒幕”の思想は、国家統一戦という大義
名分を得るのだが、その考えに至り、広く信奉され
るようになるには、長い時間がかかった。

 とにもかくにも、長州藩は徐々に尊王攘夷の思想
から離れ、尊王倒幕へと向かっていくのだが、その
間に長州藩は欧米列強と仲良くした。近代兵器を
大量に購入し、編成やものの考え方も多く取り入れ
、身分やしきたりに捕らわれない合理主義の考え
を取っていった。すなわち、幕府に命令に背き、刃
向かうことも、大義名分にて超過できる行動だと
意識を改めたのだった。
 そのことが、第二次征長を引き起こすのだが、そ
の時期が到来するまで、長州藩では藩内の意識
改革と軍備増強が刻々と成されていった。




幕末維新 出来事一覧へ