欧米連合軍との戦いに大敗し、屈辱的な講和条 約を結ばされた長州藩は、尊攘派の勢いが弱まり 、代わって保守派の俗論党が藩政の主力を占 めた。 尊攘派は、攘夷の思想が間違っていたということ が信じられず、気勢も下がって、しょぼくれ返って いた。藩政の主導権を保守派に取られたというこ とよりも、信条を失ったという事の方が彼らにとっ て、苦しく生命線を脅かす出来事であった。 講和条約を立派にやり遂げた高杉晋作も信条が 浮つき、明日の見えない闇夜を生きている心持ち であった。尊攘派たちは藩政から斥けられ、目的 も失いかけていた。 保守派はこの機を逃さず、藩政から尊攘派の 藩士たちを次々と締め出し、高杉も政局から遠ざ けられ、命の危険にさらされた。 高杉は危険を察知して、萩を脱し、福岡に逃亡。 有志たちを支援する野村望東尼(のむらもとに)の 家に居候して、未来の方策を練った。 一時の空白の時が尊攘派志士たちを包んでい たが、高杉の奮起がその後の日本を代える思想 の転換を成した。 高杉は、保守派で佐幕の俗論党を藩政から追い 出さなくては、長州藩の改革はおぼつかないと考 えた。諸外国と結んで国家統一を成さなければ、 下関講和会議で受けた租借地問題が再び日本を 襲うであろう。そうなれば、日本は中国・清国の二 の舞になることは必至だ。 漠然とではあるが、高杉は欧米と一時期の間で もいいから仲良くして、欧米の技術を全て学び取り 、国家統一を最優先にすべきだという構想に至っ ていた。 それしか日本の窮地を脱する道はないということ に行き着いた高杉の行動は素早かった。取るべき 行動は、長州藩が国家統一へ向けて、先導者と なるべきこと。それには、藩内に革命をもたらし、 自分がその総帥として、藩政を牛耳ることにある。 高杉のこの強い信念は、明日の見えない暗闇を 漂う長州藩を動かすには充分すぎる力を持って いた。高杉の藩内革命の意志は、当初は奇兵隊 の間でさえ、受け入れてもらえなかった。しかし、 高杉は、80名にも満たない少数だけで革命を実行 に移した。 高杉の国家統一へ向けて、長州を変えるという 意志は鉄壁の堅固さと山をも動かす怪力を現した。 革命戦の緒戦を勝利で飾った高杉の下には、続々 と兵団が詰め掛け、奇兵隊とその諸隊の参加にて 、総勢3000名を超えた。 革命戦の勢いは強く、萩からは高杉らの革命軍を 鎮圧しろという藩命を受けた先鋒隊が南下して来て 、革命軍と激突した。さしずめ、封建体制側の軍団 と民衆革命側の軍団の戦いとなった。 秋吉台付近にある太田・絵堂にて会戦した両軍は 、10日間の死闘を繰り広げ、国家興亡の危機を救う という大義名分を掲げる革命軍の勝利に終った。 この高杉による藩内クーデターは、成功を収め、 俗論党は藩政から斥けられ、高杉が目指す、富国 強兵の理念と国家統一という勤王思想が藩政にて 実行されていった。 |