奇兵隊、官軍の
主力を成す!



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国家統一戦で官軍主力を成す!


 戊辰戦争は、国家統一戦である。
 かつて、高杉晋作が革命軍を起こした時、欧米
列強に対抗するための日本が取るべき最初の
方策を国家統一と定め、その大義名分をもって、
長州藩内に革命をもたらしたように、国家統一戦
を想定した部隊が奇兵隊であった。
 当初は攘夷実現のための兵団だった奇兵隊が、
高杉の藩内改革後、国家統一を実現する為の兵
団へと目的を転換させたことは、重要である。

 欧米列強と熾烈な攘夷戦を成した長州藩は、西
洋兵器を奇兵隊ら諸隊に増強し、兵団の鍛錬は、
西洋戦術に一本化した。銃撃戦を効率よく展開す
る戦術に長ける西洋戦術は、国家統一戦となる
戊辰戦争にて、いかんなく効力を発揮する。
 戊辰戦争で長州藩軍が所持した西洋式小銃は、
2万4000挺にも達した。これは国内諸藩最大数で
あったが、この銃隊を中心とした長州藩軍は、西
洋戦術を駆使して、最大の戦果を挙げ、官軍各藩
軍の中で、最強を謳われた。

 戊辰戦争に参軍した長州藩軍の諸隊総兵数は、
5000人余りで、戦死者は300人以上、負傷者は
600人を数えた。
 戊辰戦争終結によって、亡き高杉の国家統一へ
の意志は達成され、長州藩軍は胸を張って、続々
と帰藩し、凱旋を飾った。しかし、戦争が終れば、
用兵部隊は用済みが必須である。
 いかに官軍の中枢を担った長州藩の兵団といえ
ども、富国強兵策のため、人件費がかさむ兵団の
大規模確保は難しくなる。
 藩兵として意識をなくし、国家指揮下のもとに近
代軍制を布く事が必要であり、郷里中心の考えが
根強い藩軍制は廃止されるべき旧制度であった。
 そのため、新政府の兵部大輔となった大村益次
郎は、国家の軍制改革を進めるため、藩軍制の
撤去を行い、徴募によって、国家奉仕に直結する
兵団作りに取り組んだ。
 この藩軍制廃止により、兵団から締め出された
者たちは、不満を募らせ、兵乱という形で不満を
爆発させた。
 1869年(明治2年)11月、長州藩の遊撃隊中堅
大将3名が、上官の弾劾書を提出し、それが取り
上げられないとわかると、185名の隊員が武器を
持って、脱退した。
 さらに常備軍編成からもれた奇兵隊員258名、
整武隊員275名、振武隊員202名、鋭武隊員171名
などが一斉蜂起し、この兵乱に諸々の不平士族も
加わって、武装蜂起者数は2000名を超えた。
 この兵乱に驚いた木戸孝允は、長州へ自ら赴き
、強硬鎮圧を断行し、首謀者・扇動者と見なせる
人物を大量投獄し、そのうちの133名が処刑さ
れた。

 奇兵隊が果たした役割は、大きかった。明治新
政府が近代兵団を作り上げるためのモデルとな
ったことはいうまでもない。民兵組織が実戦におい
て、武士団の部隊を上回るほどの戦果を挙げた
ことは、民衆から徴募して、近代兵団を組織する
ことを新政府に踏み切らせた。
 国家統一を実現するために戊辰戦争では、大
活躍を見せた奇兵隊ら諸隊は、国家統一が成る
と、その思想から国家忠誠を本位とする兵団が
求められたために、消え行く運命となった。
 藩軍制内に収まる奇兵隊ら諸隊が、藩本位の
立場で存在することは、国家統一思想と逆行する
のである。
 画期的な民兵組織を成した奇兵隊隊員でさえ、
この軍制変動を認知できない者たちが大勢いた。
運営が上手くいく以上、現状維持を守ろうとするの
は、賢明な人間のサガである。しかし、近代国家
を築くには、進歩的な考えを持って、取り組まなく
てはいけない時が多々あった。
 藩本位の軍制から国家本位の軍制へ変貌し、
新たな兵制の出発を成さなければ、日本沈没も
あり得るほど危機的時期だった。
 その意味で、維新後の軍制改革による摩擦熱
が奇兵隊ら諸隊の隊員蜂起となって現れた。
この改革のひずみで生じた部分を斬り捨ててでも
、富国強兵、国家本位を成すことで、高杉晋作ら
維新の有志たちが目指した日本繁栄の実現が
なったのである。




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