ペリー来航



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鎖国政策を終わらせた訪問者・ペリー提督


 日本の開国を求めてペリーが1852年(嘉永5年)
10月にアメリカ・バージニア州のノーフォーク軍港
を出港した。
 ペリーはアメリカの東インド艦隊司令官であり、
この度は遣日特使の任にも就いて、日本遠征の
途についた。
 日本遠征の目的は、
 @アメリカ漂流民の保護
 Aアメリカ捕鯨船の食糧・薪水の補給
 B日本の地に貿易港を開くこと
 の三点でこれを日本側に要求するためで
 あった。

 ペリー提督が乗ったミシシッピ号は、大西洋を
南下して、喜望峰(きぼうほう)をまわり、セイロン
島、シンガポールを経由して1853年(嘉永6年)2
月29日に香港に入港した。
 この地では、プリマス、サラトガ、サプライ号など
先に到着していた艦船と合流をして、新たに艦隊
を編成している。
 琉球を集結地と定めたペリーは、上海から琉球
を目指して出港した。日本側との交渉を成すに
あたって、琉球を根拠地とするためであった。

 琉球に着いたペリーは早速、琉球政府に修好
の希望を述べ、開国の足がかりとし、ついで小笠
原諸島の父島に立ち寄り、貯炭所を作り、補給地
の確保を成している。

 こうして、足固めを成した後、5月26日にペリー
艦隊は、浦賀へと向かった。この時の艦船は、
ペリーの乗る旗艦サスケハナ、ミシシッピ、サラト
ガ、プリマスの四隻であった。
 この四隻のうち、サスケハナ、ミシシッピの二隻
は蒸気船で、プリマス、サラトガは帆船であった。
四隻ともに黒塗りされた巨船であった。

 1853年(嘉永6年)6月3日早朝、ペリー艦隊は
伊豆沖を通って三浦半島をまわり、江戸湾に進行
した。その日の午後5時ごろには、浦賀沖にいかり
をおろして停泊。四隻は砲門を陸地に向けて、戦
闘準備の構えを取っていた。

 このペリー艦隊の行動に驚いた日本側は、多数
の警備船が出港し、ペリー艦隊に向かった。これ
らの船は、ペリー艦隊に近づくと乗船しようとした
がペリーは自分が乗る旗艦・サスケハナ以外には
誰も乗船させてはならないとし、また日本政府の
高官以外とは直接面会をしない方針を取った。

 浦賀奉行所では、思案して、浦賀奉行組与力の
中島三郎助という者が浦賀副奉行と称して乗船
することになった。この乗船を認めたペリー側は、
副官コンティ大尉が対応した。
 アメリカ側は日本皇帝(将軍)宛ての大統領親書
を受け取る日本政府の高官派遣を求めた。それに
対して日本側は諸外国との交渉はすべて長崎の
出島にて行っているという国の方針を説明し、長
崎に回航するよう要求した。
 しかし、ペリー側はこれを拒絶し、会談は進行し
ない。そこで、今度は浦賀奉行と称した与力の
香山栄左衛門(かやまえいざえもん)がペリー側
との交渉に臨んだが結果は同じであった。
 ペリー側は回航要求を拒絶するだけでなく、日本
側があくまでも大統領の親書を受け付けないので
あれば、これをアメリカへの侮辱と見なし、いかな
る事態が起こっても責任は取らぬと強硬な姿勢を
見せた。
 ついには6月6日、ペリーは江戸湾の奥まで測量
隊を進入させて地検をするなどして、威圧的な行
動に出る。
 このペリーの武威外交には、7年前にビッドル提
督が平和外交を行って失敗した教訓から生じたも
のであった。なにがなんでも日本との交渉に区切
りをつける必要があると考えたのであった。

 このペリーの強硬姿勢に浦賀奉行は驚き恐れ、
すぐさま黒船来航の急報を江戸に発した。
幕府は会議を開いて議論したが、名案も浮かばず
、結局はペリーの要求を受け入れることにした。

 幕府の意向を受けて、ペリー艦隊は浦賀から江
戸へと進行し、6月9日には久里浜沖に到着し、
停泊した。艦隊からは士官・水兵・軍楽隊らが
出てきて15艘のボートに乗り込み、上陸した。
 海上には会津藩・忍藩の藩兵が警備し、陸上で
は彦根藩・川越藩の藩兵が警備に当たった。

 大統領親書の授受は、応接所で行われ、日本
全権には浦賀奉行・戸田氏栄(とだうじよし)、
井戸弘道が勤めた。
 ペリーは来春に再び来航して、日本側の親書に
対する回答を求めることを述べ、3日後に全艦隊
を江戸湾から出港させた。





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