再来航を宣言して、日本を去ったペリー提督は、 宣言よりも早い1854年(安政元年)1月に伊豆沖に 来航した。 今度の艦隊は、前年よりも規模が大きく七隻の 艦船が組まれた。旗艦・ポーハタン号、サスケハナ 号、ミシシッピ号の三隻は蒸気船で、マセドニア号 、サザンプトン号、レキシントン号、バンダリア号の 四隻は帆船であった。 江戸湾に入ったペリー艦隊はそのまま勢い込ん で、奥深くの羽田沖まで進行して日本側を威圧 した。驚き慌てた幕府は急きょ、神奈川宿のはず れにある横浜という寂れた漁村を交渉の場と した。 幕府側の全権は、林大学頭、町奉行・井戸覚弘 、浦賀奉行・伊沢政義、目付・鵜殿長鋭の四名が なった。交渉は2月10日から10日間に渡り、交渉 会議回数は4回に及んだ。 そうして、3月3日に日米和親条約が締結され、 幕府は名実共に鎖国政策をアメリカの武威の前に 撤廃させられたのであった。 十二箇条に及んだ条約の主な内容は、 ○下田・箱館の開港と薪水・食糧の供給 ○両港における遊歩区域の設定 ○外交官の下田駐在許可 ○最恵国約款(さいけいこくやっかん)の承認 などで一方的な米国の要求を呑む形で成り立ち 、片務的な不平等条約だった。 ※最恵国約款とは、条約を結んだ国の一方が 別の国にもっと恩恵的な条約を結んだ場合 にその内容と同等の待遇を先に結んだ国に も与えるというものである。 この時、日本は一方的に欧米諸国から条約 締結を強いられ、互いに義務を負う双務的 な条約ではなく、片務的な不平等条約であ った。 |