薩英戦争



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関門海峡攘夷戦で西欧軍隊に大敗す!


 攘夷実行を幕府に強硬に迫り、それを約束させ
た薩摩藩は、長州藩とともに攘夷派の中心的存在
であった。
 生麦事件によって、薩摩藩の攘夷の気概は天下
に知れ渡り、薩摩隼人たちの奮起で、攘夷は成就
すると思われた。
 しかし、事態はそう甘くはなかった。幕府から賠償
金10万ポンドという破格の支払いを得たイギリスは
、今度は犯行当人である薩摩藩に賠償金2万5000
ポンドと下手人をイギリス官吏の前で裁判と処刑を
行うことを要求した。
 幕府は、一応国政を預かる身として、薩摩藩への
賠償交渉は幕府が仲介するとイギリス側に述べ、
イギリス側が直接、薩摩藩に賠償交渉をしないこと
を求めた。しかし、幕府に薩摩藩を屈服させ、賠償
させることは不可能に近く、イギリス側でもそれは
薄々わかっていた。
 そこで、イギリス側は幕府に任せず、直接交渉を
するため、キューパー提督率いるイギリス艦隊7隻
を鹿児島湾へ向かわせた。
 1863年(文久3年)6月27日、鹿児島湾に入った
イギリス艦隊は、代理公使・ニール以下、公使館
職員全員が艦隊に同行して、是が非でも交渉成立
を目指した。
 薩摩藩は小舟でイギリス艦隊にこぎ寄せ、藩の
役人が何度か折衝を行ったが、交渉は決裂した。
薩摩藩内では、公使・ニールとキューパー提督を
上陸要請でおびき出し、捕虜しようという計画を立
てたり、剣術の腕が立つ藩士40人ほどが商人など
に扮して、船でイギリス艦隊にこぎ寄せ、物売りを
装って乗船し、イギリス人を皆殺しにしようという
計画を立てた。だが、いずれもイギリス側の用心
深い警備によって、計画遂行は中止された。

 薩摩藩のイギリス側への回答は、殺害者の捕縛
がいまだ成されていないことを伝え、殺害者の捕縛
、処刑が成された後に賠償問題は解決されるべき
だと主張し、完全にイギリス側の要求をはぐらか
した。
 これに怒ったイギリス側は、薩摩藩の譲歩を引き
出すため、薩摩藩が外国から購入した汽船三隻(
約8万ポンド相当)を拿捕(だほ)し、これを質として
薩摩藩を脅迫しようとした。
 この時、船内に残っていた五代友厚、寺島宗則
がイギリス側の捕虜となった。領内で勝手なことを
するイギリス艦隊の動きを見た薩摩藩は、ついに
しびれを切らして、全砲台が火を噴いた。
 突然の薩摩藩の砲撃にイギリス艦隊は慌てふた
めいた。それはまだ、錨(いかり)を下ろしたままだ
ったため、砲撃の集中砲火を浴びたためだ。
 砲台の近くに停泊していたバーシュース号などは
錨を引き上げる間もなく、錨をその場で切り捨てて
逃げる始末だった。
 イギリス艦隊は薩摩藩からの砲撃に逃げるのに
必死で、応戦するのに手間取ったが、拿捕した薩摩
藩の汽船を焼き払い、順次戦闘態勢に入った。

 薩摩藩の砲台は10ヶ所有り、総計83門を備え、
球形弾を用い、射程距離は約1Kmであった。それに
引き換え、イギリス艦隊の艦砲は総計101門を数え
、その中には当時、世界最強の大砲・アームストロ
ング砲があり、射程距離は4Kmもあった。
 イギリス艦隊は、艦隊戦術を駆使して、一列縦隊
で航行し、陸にある薩摩藩の諸砲台に次々と砲撃
した。
 しかし、激しい砲撃戦のためか、イギリス艦隊は
知らず知らずのうちに薩摩藩の砲台に近づきすぎ、
全艦ともに薩摩藩の砲撃を浴びた。旗艦・ユーリア
ラス号は薩摩藩の砲撃で、館長と士官が戦死し、
主甲板には破裂弾を喰らい多数の死傷者出して
いたため、戦線離脱を余儀なくされた。
 ついで、パール号も砲撃を浴び、戦線離脱をする
などイギリス艦隊は大きな被害を受けた。それ以上
の被害を受けた薩摩藩は、この戦争で近代工場設
備を整えた集成館工場群を焼失し、鹿児島の町は
一割が火の海と化した。
 両者痛み分けで勝敗は定まらなかったが、被害の
度合いから薩摩藩の敗色は濃かった。
 三時間半の交戦の後、イギリス艦隊は湾口に引
き上げた。60数名の死傷者を出したイギリス側は、
薩摩藩の激しい反撃にみな驚いた面持ちだったが、
薩摩藩に多大な被害を与えてやったことは、わか
っていたので、再度湾内に入り、上陸して町を占拠
すべきだとする意見が出た。
 しかし、キューパー提督はこの案を斥け、撤退を
決断した。これ以上の死傷者を出すことは賢明で
はなかったし、上陸戦ではもっと激しい抵抗にあう
と予想できたからだ。

 この戦争で、攘夷実行を声高に主張してきた薩摩
藩の信条は、木っ端微塵に打ち砕かれた。いくら
砲台を築いても、兵器の火力に差がありすぎた。
一度の戦いでこれほどの被害を受けては、国力・
軍備の再生は、おぼつかない。攘夷実行がいかに
愚策であるかを薩摩藩士全員が悟れるほど、被害
は深刻だった。
 攘夷実行が不可能になるなど、薩摩藩内の中で
誰一人として想定していなかった。攘夷の信条が
崩れ去り、ポッカリと信条心に穴が空いた状態と
なった薩摩藩では、攘夷論から別の論へと転換し
て、信条心の穴埋めをしなくては成らなくなった。
 その新たな信条は、欧米列強に肩を並べられる
よう富国強兵策を徹底し、国力武力の向上を図る
ことであった。それには、欧米列強と仲良くして、
欧米の強さの秘訣を探り、よく学び取ることが最善
の近道だった。
 薩摩藩の近代化は、諸藩を凌駕する勢いで伸ば
していたが、それでも攘夷実行は不可能なくらい
欧米列強との格差がありすぎた。
 この差を縮めることを最優先事項に掲げた時、
薩摩藩の信条は、国内挙げて富国強兵の国内
滋養を行うべきことへと発展した。薩摩藩一藩だけ
で尽力しても、所詮たかが知れた成果しか挙がら
ない。
 欧米列強の強さの秘訣は、国家総出で富国強兵
策を実施していることにあるとわかれば、薩摩藩の
方針も自然と国家統一を成す事が大事となる。
 そこに国家統一の障壁は何かと考えれば、幕藩
体制そのものではないかと気付く。各藩ごとに国内
を統治していては、国家総出で富国強兵はおぼつ
かない。ましてや幕府は根っこから腐っている。
 このような状況を打開し、国家統一を成し遂げる
には、外交問題で悩んだ古来の日本が取ってきた
方法に戻るしかない。
 渡来人や朝鮮半島問題など外交問題で苦慮した
大和朝廷は、国内統一を果たし、国力増強を成した
ではないか。
 朝廷を政権の中心に掲げ、余分な政治機関であ
る幕府を排除し、国家統一を成し、国内総出で富国
強兵を実施しなくては、欧米列強の外圧に対抗でき
ない。
 欧米列強の強さは本国が国家統一を成して、海外
進出を集中して行って、いまの栄華を誇っているの
だから、日本もこれに習うべきなのだ。
 この境地に至って、薩摩藩は尊王倒幕の思想を
確立した。倒幕という思想に踏み切るには、かなり
の時間と度胸を擁したが、それによって、日本は
明日の知れない暗闇から抜け出し、明確に日本の
将来を展望することができるようになったのである。
 その意味で、この薩英戦争は、当時の日本に漂
っていた混迷な霧を晴らし、日本の将来のあるべき
姿を志士たちに悟らせてくれた重要な歴史的要点
となる事件であった。





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