8・18の政変



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強硬派尊攘論者が乱舞する洛中情勢


 1863年(文久3年)6月、真木和泉が入京すると
攘夷思想がにわかに広がっていった。真木は尊攘
派のアジテーターのような役割を自分に科し、京
都を中心として、思想の浸透を目指した。
※アジテーター[agitator]とは、大衆を扇動する人。
扇動者のこと。
 真木は攘夷親征と倒幕決行を説き、朝廷内へも
大きな影響を与えた。尊攘論の一大旋風で公卿た
ちにの中からも、攘夷親征に同調する者が現れ、
朝廷内でも積極政策として、議論が成された。
 ついで、長州藩からも桂小五郎や久坂玄瑞らが
入洛し、公卿たちに尊攘論を熱く説いた。反対に佐
幕派や開国派の公卿たちは、天誅行為で脅迫され
、次第に攘夷派に押されていった。

 時の関白・鷹司は、攘夷親征を成すべきかどうか
、在京中の因幡・備前・阿波・米沢ら藩主に問い、
意見を求めたが、いずれも攘夷親征に反対した。
 しかし、三条実美(さんじょうさねとみ)ら尊攘派
公卿の運動で、朝廷内の主論となし、無理押しが
通るようになった。
 ついに伊勢神宮へ行幸する詔(みことのり)が8月
13日に出され、強硬な尊攘派にあまり賛同しない
孝明天皇を政局の表舞台に引っ張り出してきた。
 孝明天皇は熱烈な攘夷論者ではあったが、武威
を用いる攘夷には、幕府を中心で行うべきだと考え
ていた。言わば、規定の幕藩体制による秩序立った
攘夷実行を望んでいた。
 しかし、この公武合体による攘夷とは別に強硬派
攘夷論者たちが掲げる攘夷は、あくまでも天皇・朝
廷が中心と成り、浪士たちによる徒党を組んだ群衆
によって、攘夷実行を成そうとしていた。
 また、強硬派攘夷論者たちは、攘夷と倒幕を同時
に行おうという無理な考えを持っていた。無計画な
上、既存の力量は乏しく、貧乏根性による気勢だけ
で夷人を打ち払えると考えていた。

 この無謀な計画は、諸外国の力量を知る知識人
たちから見れば、愚策でしかなかった。長州藩の
強硬派攘夷の志士たちだけは、藩の武力によって
、打ち払うことを考えていたが、やはり諸外国の力
量をあまりにも軽視していた。

 孝明天皇は、一橋慶喜や松平容保から幕府の
軍備が整うまで、攘夷実行は延期すべきことを説
かれて、一応の納得を見ていた。
 秩序を重んじる朝廷の方策としては、既存の政権
での攘夷決行が望ましいと考え、既存の政権を討ち
、それと同時に攘夷も決行するなど虫が良すぎる
話であった。

 朝廷内の強硬派攘夷の公卿たちが無理押しにて
、天皇の意向も無視して、攘夷親征を勝手に決めた
ことに孝明天皇は、内心憤慨しており、意の如くなら
ない不満を中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさ
ひこしんのう)に打ち明けた。
 中川宮は伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえ
しんのう)の四男で、僧門に入り、青蓮院門跡(しょう
れんいんもんぜき)となった。水戸藩の攘夷思想に
影響され、朝廷内外で攘夷主張を成したが、安政の
大獄で蟄居処分を受けた。その後、罪を許されてか
らは還俗を果たし、中川宮を称した。
 再び尊攘論が洛中で加熱すると中川宮は、現実
的な攘夷論を唱え、公武合体論者の立場を取った。
孝明天皇から深い信頼を得ていた中川宮の挙動
には、周囲の者たちが注視するところであった。

 8月16日の午前四時ごろ、諸事の奏上と称して、
天皇の寝間まで行き、強硬派尊攘の者たちを廷内
外から追放する計画を伝えたが、十分な説明を
成す前に長州派公卿たちが次々と参内してきた
ため、いったん退出した。

 長州派の公卿や尊攘派の志士たちが廷内外で
目を光らせて、自分のことを探っていることを察知
した、中川宮は、密かに強硬派尊攘論者たちを
追放する計画を進めた。前関白・近衛忠煕父子や
右大臣・二条斉敬(にじょうなりゆき)ら公武合体派
公卿と計画を練り、京都守護職の任に就いている
堅実な佐幕派の会津藩主・松平容保と寺田屋事件
で急進派尊攘の志士たちを討滅した薩摩藩に武力
協力を仰いだ。






過激尊攘派を出し抜く、電撃クーデター!


 8・18の政変ほど、鮮やかで手際のよい革命は、
特異すぎるほどに歴史上、類を見ないものだった。
 8月18日の午前1時ごろ、革命計画者・中川宮が
急に宮廷内に入るや、それに続いて近衛忠煕父子
や右大臣・二条斉敬ら公武合体派公卿が参内し、
ついで京都守護職の松平容保、京都所司代の稲
葉正邦(いなばまさくに※淀藩主)も続いて参内
した。

 宮廷内が慌しい様相を態すと会津藩・薩摩藩・淀
藩の三藩に急使がたてられ、皇居をすぐさま守衛
すべしと命令が下された。
 三藩の軍勢は、完全武装を成して、参内すると
唐門以下九つの門を閉ざして、厳重に守備した。
召し出しを許可されていない者はたとえ関白であ
っても通してはならないとの厳命が下り、宮廷内は
完全に外部との往来を遮断された。
 宮廷の守備が成ると続いて、在京する土佐・因幡
・備前・阿波・米沢の各藩主に藩兵を率いて参内
するよう命令が下った。
 こうして、宮廷を取り巻く完全警備体制が布かれ、
午前4時に合図の大砲が一発放たれた。

 朝議で議論され決まったことは、
 ●大和行幸の延期
 ●尊攘派公卿の参内・外出・面会の禁止
 ●長州藩の堺町門の警衛の任を免除する
   (※代わりに薩摩藩が警衛の任にあたった)
 などで、強硬派尊攘論者を完全に出し抜き、彼ら
を洛外追放する処置となった。
 また、天皇の同意なしに勝手に行幸を決定した
不忠の公卿や志士たちを取り締まることが厳命さ
れ、強硬派尊攘の中心人物である真木和泉・久坂
玄瑞・桂小五郎・宮部鼎蔵・轟武兵衛などの名が
挙げられた。

 宮廷の内外で異様な騒動に気付いた強硬派尊攘
の公卿たちは、急いで参内しようとしたが、九門は
すべて閉ざされ、門の前には武装兵団が固まって
行く手を遮っている。
 参内できないで右往左往する中、関白・鷹司政通
が参内して、三条実美ら強硬派尊攘の公卿たちの
弁護を試みたが、取り上げられず、三条らは頭を
抱えてこの状況に当惑した。
 そうこうしているうちに鷹司邸の周囲には、会津・
薩摩両藩の軍兵が取り巻き、鷹司邸の出入りが
できなくなってしまった。

 宮廷内の物々しい警備を知り、急いで警衛を受け
持っている堺町門まで来て見たが、薩摩藩軍が凄
い形相でにらみ返して来て、とても抗議できる雰囲
気ではない。
しばらく薩摩藩軍と長州藩士たちは遠巻きに互いに
にらみ合っていたが、長州藩はその場から立ち退く
ようにとの勅命が出され、朝廷内で佐幕派が決起
したことがわかった。
それでも抗議しようとする長州藩士たちがその場に
いると薩摩藩軍は大砲を並べて、近寄る者を八つ
裂きにしてやるといわんばかりに殺気立ったため、
これに気圧された長州藩士たちは渋々、その場を
立ち去るほかなかった。

 洛中を追われた長州藩士たちと公卿たちは、洛北
の大仏妙法院に集まって協議した。攘夷派の諸藩
士たちも含めて、総勢2600名がその場にいた。
 それはいい!と思える善後策も思い浮かばず、
彼らはいったん長州藩へ退いて、再挙の時期を待
つことにした。こうして”七卿落ち”が成された。

 一行が長州藩に到着すると彼らは状況分析を成
して、政情議論を紛糾させた。その結果、出た結論
は、この政変の首謀者は、中川宮とそれに組する
公武合体派公卿たちによって成され、それに佐幕派
の会津藩が協力し、天皇の意向を受けた薩摩藩が
借り出されたのが全体像と解釈した。
 そのため、武力を持って、宮廷を奪還すれば、
再び尊攘派主導で政局を進めることができると判断
した。
 この誤った政局判断が、禁門の変での長州藩の
失態へとつながっていく。強硬派尊攘のよりどころ
は、京都以外にはなく、京都の奪還だけが彼らの
頭を支配した。

 一方、電撃作戦で強硬派尊攘論者を洛中から追
い出すことに成功した公武合体派は、過激な方針を
一変させ、佐幕よりの政局の流れを作り出した。
 孝明天皇は、この度の迅速かつ適切な守衛を成し
革命を成功させた功労者として、松平容保を召して
「容易ならざる世の中に、武士の忠誠の心を喜びて
詠める」と賞して、
 武士と心あはしていはほをも
   つらぬきてまし世々の思い出
という自筆の歌を容保に与え、信任の情を表した。

 公武合体派の中心的存在となった中川宮は、8・
18の政変でマキャベリストを演じ、宮廷内に一時の
平穏と秩序をもたらした。
※マキャベリストとは、[Machiavellist]
(1)マキャベリの思想を貫く人を指す。
どんな手段でも、また、たとえ非道徳的行為であっ
ても結果として国家の利益を増進させるなら許され
るとする考え方をする人のこと。
(2)目的のためには手段を選ばないやり方をする人
のこと。実利を追求する権謀術数主義者のこと。

 しかし、中川宮が期待した公武合体政権は、諸大
名たちの合議制が上手くいかず、何ら成果を挙げる
ことなく解散してしまう。
 こうして中川宮が成した8・18の政変によって、生
み出された公武合体政権は、実りなく崩壊し、その
政局の空白には、薩長連合が武力倒幕という凄み
の利いた理念を掲げて、入洛して来るのであった。

 中川宮は朝廷内での居場所を無くし、1867年(慶
応3年)に発せられた王政復古の大号令で、かつて
の強硬派尊攘の公卿たちから仕返しを喰わされる
という憂き目を見る。
 その後、大政奉還の翌日に辞職し、政局を去ると
1868年(明治元年)には、新政府から親王などの位
階を停止され、広島へと流される悲運を受けるので
あった。





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