天誅組



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天誅組の人たち


 天誅組が決起した当時の情勢は、まさに過激尊
攘派の絶頂期にあった。
 1863年(文久3年)夏、三条実美ら強硬派尊攘の
公卿たちは、洛中を跋扈(ばっこ)する過激尊攘派
の志士たちと結託して、天皇親征を画策した。
 親征実行の契機付けとばかりに天皇の大和行
幸、神武天皇陵、春日大社参拝を実現し、その後
に親征の軍議を開くという計画を立て、天皇の意
向を無視して無理押しの形で行うことを決定した。
※契機とは、物事が始まったり、変化が生じたりす
  る直接の要素や原因。きっかけ。動機。

 この大和行幸の計画を知った過激尊攘派の志
士たちは、大いに気勢を挙げ、さらなる攘夷実行
に加熱した。
 この熱気に乗じて、尊攘実行の先駆けとなろうと
した者たちがいた。土佐の吉村寅太郎、備中の
藤本鉄石、三河の松本奎堂ら過激尊攘派の志士
たちである。
 彼らは東山の方広寺に集まり、根が腐っている
幕府を倒し、自分たち主導の世の中にしようと考
え、倒幕の火付け役になろうと計画した。
 彼らの掲げた尊攘倒幕の考えは、その後に起き
る下関戦争や薩英戦争で欧米列強に敗北した長
州藩、薩摩藩が反省の上でたどり着いた倒幕思想
とは、意を異にする。
 吉村たちが考えた尊攘倒幕思想は、傲慢無礼
甚だしい悪代官の親玉である幕府を倒し、同時に
攘夷も実行して、国体を保とうとした。さしずめ、建
武の新政のような革命を起こし、吉村たち革命の
先駆けを成した功績で自ら政権の中枢になろうと
いう出世野望が剥き出しの行動であった。
 尊王攘夷の先駆け決起なのだから、尊王として
朝廷の誰かを総大将として祭り上げる必要がある。
そこで彼らが目をつけたのが、大納言・中山忠能の
七男・中山忠光であった。忠光は弱冠19歳の青年
公卿であったが、血気盛んな若者で強硬な尊攘派
の立場を取っていた。
 土佐勤王党の盟主・武市瑞山でさえ、忠光の血の
気の多さに、もてあましたという。そこで、吉村らは、
忠光を総大将に据え、総裁には吉村寅太郎・藤本
鉄石・松本奎堂が就き、天誅組の武装蜂起が成さ
れた。

 方広寺に集まった吉村ら同士38名は、8月14日夜
に伏見から淀川を下って、大坂を出て、海路堺に
たどり着いた。そこから河内へ入り、同士を募ること
にした。
 河内で水郡善之祐(みずごおりぜんのすけ)ほか
十数名を同士に加え、さらなる活動を盛んにした。
まず、朝廷に提出する奏聞書を作成した。内容は
挙兵の趣旨を説明し、討幕の勅諚を請い、速やか
に天皇新征を実行することを願った文章であった。

 ついで吉村ら一行は、千早峠を越えて、大和へ
入り、17日夕方、五条の町へ到着した。この地では
、大和諸郡10ヶ村7万1000石の土地を支配する代
官所があった。吉村たちは倒幕の先駆けを成す!
と豪語して、そこの代官の鈴木源内ほか四名を
捕らえ、斬首した。
 天誅組の武装蜂起の契機付けとして、幕吏らを
血祭りに挙げ、気勢を挙げた。中山忠光が桜井寺
に到着し、そこで吉村たちは五条新政府の協議を
行った。それぞれの役職を決め、計画を練った。
 五条の代官支配を解き、天皇直轄地と定め、農民
たちには「祝儀として本年は年貢半減」と告げて、
天誅組支持を取り付けようとした。
 吉村たちが五条新政府樹立と称して、祝い舞って
いるころ、京都ではとんでもない革命が起きていた。

 1863年(文久3年)8月18日、中川宮ら公武合体派
公卿たちが結託して、会津藩・薩摩藩ら京都在中の
諸藩の協力を取り付け、宮廷内を占拠したのだ。
 佐幕派諸藩の軍兵が宮廷内外を警備し、強硬派
尊攘の長州藩や公卿たちは手出しができなかった。
こうして、強硬派尊攘の志士たちは洛中を追われ、
たった一日にして、革命は成就し、政局は尊攘派
主導から公武合体派・佐幕派主導へと移った。

 この政局の変革の報せを五条で受け取った天誅
組は、大いに慌てた。まったくもって、朝廷や長州藩
の後ろ盾を失ってしまったのであるから、孤立無援
は必至の状況と成った。
 天誅組を討伐する動きに入ると考えた吉村たちは
兵力増強を図るべく、政変の事実を隠したまま、
朝命と称して、吉村寅太郎の名で檄文がその地一
帯にまかれた。
 名字帯刀(みょうじたいとう)を許し、5石2人扶持
の給与を与えるとして、15歳〜50歳までの男児に
召集をかけた。
 十津川郷では、これに応ずべきか議論が成された
が結局、天誅組に組することに決定し、1000名余り
が参加した。

 兵力増強を成した天誅組の行動は、慌しさを増
した。五条の地は水郡たち河内勢に任せ、忠光ら
天誅組本隊は、8月20日に十津川の天辻(てんつじ
)に本営を移した。
 天辻の地は切り立った絶壁に囲まれ、天然の要
害を誇り、天誅組討伐隊に備えるにはもってこいの
地形であった。しかし、水の便が悪く、周囲に村々
がなかったため、食糧供給など物資調達に困難な
点が欠点であった。

 佐幕派の諸藩が天誅組を討伐する部隊を投入し
ようとしていることは明らかだった。この情勢に忠光
は武器弾薬の確保が必要と判断し、十津川郷士た
ち1000名を率いて、高取城を攻めた。城兵は260名
の小勢であったが、高取城は標高600m近い小山に
建てられ、堅固な城として有名であった。
 高取城からは旧式の大砲が天誅組目掛けて飛ん
できたが、あたることは無かった。同じく天誅組が
即席で作り上げた木製の大砲もさっぱり遠くに飛ば
ず、戦力にはならなかった。
 攻め方がわからず、城の周りをウロウロする程度
で何ら打開策が見出せなかった天誅組は、仕方なく
撤退した。烏合の衆でしかない十津川郷士たちの
戦果のなさに憤慨した吉村は、精鋭の者数十人で
高取城へ夜襲をかけてみたが、ろくな訓練もしてい
ない部隊のため、作戦はバラバラとなり、ついには
吉村自身が味方の誤射した銃弾にわき腹を撃たれ
、重傷を負い、撤退を余儀なくされた。

 天誅組の心意気は、純粋に国難の危機を救うた
めの義戦蜂起であったが、ろくな準備もないまま、
周囲の協力を得て、成就するという都合のいい計画
を立てていたため、誰からもその真義の姿勢を認め
られなかった。
 朝廷側も世の中に不平不満を持つ、貧乏浪士た
ちが無秩序蜂起をして、世の中の秩序を乱し、戦乱
を広げようとしていると見ていた。
 そのため、朝廷は天誅組の追討を諸藩に命じ、
紀州・津・彦根・郡山の畿内諸藩らに白羽の矢が
たった。
 追討軍は総勢1万という大軍となり、天誅組討滅
戦を展開した。この動きを見た天誅組は、一時、
吉野山麓の下市(しもいち)を焼き打ちして気勢を
挙げ、有志たちに同調決起を促したが、誰も応じる
者はなく、孤立無援の状況を脱することができな
かった。
 ついには糧道を絶たれ、食糧不足に陥ると十津川
郷士たちの大半が離散し、天誅組の残兵数は30名
に満たなくなった。
 吉村らは、もはや死地を捜し求めて山中をさまよう
ほかなく、吉村自身は先に受けた弾傷が悪化し、同
士たちから置き去りにされるという悲運をたどる。
 そうこうしているうちに、丹生川上神社から高見川
沿いに下って、鷲家口(わしがぐち)近くまでたどり
ついたところを津藩兵に見つかり、一斉射撃を浴び
て、壮絶死した。

 藤本鉄石も鷲家口東方で紀州藩兵に包囲され、
自ら刀を振るって奮闘したが、ついに力尽き、討死
にした。
 松本奎堂は独眼の猛者であったが、戦闘中に残り
片方の目も見えなくなり、盲目のまま輿に乗って、
指揮を取った。多勢に無勢の言葉よろしく戦況は
悪化の一途をたどり、奎堂自身も弾丸を二発を胸
に受け、どっと倒れて、討死にした。

 一方、五条の地に残った河内勢を率いる水郡は、
新宮目指して、移動し、9月22日に南紀の龍神温泉
まで進軍したが、戦う気力もなくなり、紀州藩軍に
自首し、土蔵に幽閉された後、京都に送られて、
兵乱起こしの罪を負わされて、処刑された。

 次々と武装蜂起した仲間たちが悲壮の討死にす
る中、天誅組総大将の中山忠光は、再起を目指し
て逃避行を続けた。十津川郷士・深瀬繁理(ふかせ
しげさと)や伴林光平(ともばやしみつひら)らに道
案内をさせ、一路、大坂にある長州藩邸に向か
った。9月下旬にようやく大坂の長州藩邸に入った
忠光は、さらに海路、下関に向かい、長州藩の市藩
・長府藩にかくまわれた。
 その地で忠光は、再挙を目指したが、1864年(元
治元年)11月5日深夜、朝廷や幕府からいらぬ嫌疑
をかけられる前に忠光を誅殺すべきと図った藩内
の俗論派たちが忠光を襲撃した。
 5人の刺客は忠光を斬殺後、遺体を綾羅木(あや
らぎ)の浜に埋めて、引き揚げた。忠光死後に忠光
の後を追って、天誅組の生き残りが長府藩にやって
くると、忠光死すの報せを受け、死体を掘り出そう
とした。墓を作ろうとしたのであったが、俗論派の
藩士たちがこれを阻止し、朝敵のように扱われて
いる忠光の墓を作ることをさせなかった。
 長府藩は、幕府に対して、忠光は酒好き、女好き
にてまもなく衰弱して、病没したと報告した。

 こうして、天誅組は悲壮な運命をたどった。彼らの
武装蜂起は、時代の波を先取りし、波に乗る一歩
手前まで成功していた。しかし、中川宮ら公武合体
派公卿の巻き返しにあい、政局のどんでん返しを
され、天誅組は孤立無援の浮いた存在となってし
まった。
 天誅組は素晴らしい国粋主義者であったが、実利
を伴わない無秩序をもたらす危険をはらんだ兵乱
は、誰からも支持をされなかったのである。これは、
後に京都を追われた強硬派尊攘の長州藩士たちが
引き起こした禁門の変にて同じ現象が起きた。
 やはり、時期尚早な攘夷実行は無理であり、倒幕
という国内を争乱に追い込むやり方は、天皇に受け
入れられなかったのである。
 この二度に渡る強硬派尊攘思想が打ち砕かれた
ことは、その後の志士たちの思想に大きな影響を
与えた。下関戦争と薩英戦争によって、攘夷実行が
不可能とわかった時、尊攘思想は新たな転機を迎
えるのだが、その下準備として思想転換の先駆け
を成した事件が天誅組蜂起とその失敗であった。

 天誅組が目指した倒幕思想は、薩長同盟によって
、改新した形で復活する。それは、国家統一という
欧米列強に日本が肩を並べる為に必要な近代化の
第一歩となる政策に掲げ、倒幕が大義名分を完全
に得たことで、成就されていったのである。




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