■戊辰戦争地図■
↑戊辰戦争地図
↑江戸開城談判
明治新政府代表の西郷隆盛(左)
と旧幕府代表の勝海舟(右)が会談
し、欧米列強の江戸無血開城要請
もあって西郷は江戸総攻撃を中止
した。

●鳥羽伏見の戦い●

大政奉還後の元将軍・徳川慶喜の去就をめぐり、小御所会議は議論紛糾 が展開した。元土佐藩主・山内容堂と公卿・岩倉具視との間で熾烈な議論 が繰り広げられたが、結局は慶喜は辞官・徳川領地を朝廷返納で決議した。
徳川慶喜は、この決議に恭順の意を表したが、血気にはやる幕臣たちは、 この処置に憤怒した。

江戸では、西郷隆盛の命令を受けた浪士組が、幕府に対して挑発行為を 起こしていた。江戸の町を守る幕府側は当初、この挑発を我慢していたが、 あまりの横暴な振る舞いについに激昂。江戸の薩摩藩邸を攻撃してしまう。
これにより、薩長は旧幕府を朝敵と見なし、弾劾する行動に出た。幕府側も一度ついた火はもはや消せない。
幕府と薩長の一触即発の事態に陥る。

慶喜はこの時、カゼをひいて寝ていたが、板倉勝静の報告で急報を知る。将兵の憤激振りは凄まじく、幕命といえども抑えきれないとのこと。
ちょうど慶喜は、中国の兵法書『孫子』を読んでおり、”敵を知り、己を知れば 百戦あやうからず”という一節を板倉に読んで聞かせた。
慶喜は、いま幕府軍に西郷や大久保に匹敵する大人物はいるかと板倉に 訊ねると、板倉はしばらく考えていたが「該当なし」と答えた。
さらば、その他、薩摩藩士・吉井友実など世に知られた頼みにできる拮抗した 人物は、今の幕府軍にいるかと重ねて慶喜は板倉にたずねた。
だが、板倉の答えはいずれも「なし」であった。
板倉の答えを聞いた慶喜は、”このようなありさまでは、たとえ戦っても、必勝 は望めぬ。いたずらに朝敵の汚名をこうむるだけならば、無駄な戦いは避けるべきだろう。”と述べ、不戦貫徹の意志を固めた。

慶喜は、たとえ逆臣の嫌疑をかけられ、刺し殺されよう
とも会津・桑名両藩を 諭し、不戦貫徹させよと板倉に
命じた。
だが、幕府軍将兵の憤激は収まらず、弱腰の幕命には
絶対従わない構えを 見せた。
これを見た、慶喜は説得は不可能と判断。
幕府軍各部隊の諸将を大坂城の大広間に集め、意見
を求めた。諸将の意見はみな一致しており、慶喜公の
出馬を懇願。
慶喜もこの要請に応じ、全軍に出立命令を下知。
諸将一同はみな勇躍して持ち場へと戻っていった。

そのスキに慶喜は、板倉、松平容保、松平定敬らわず
か4〜5人のお供を 連れて、江戸へ戻る決意を伝える
。この慶喜の決断に松平容保、定敬らは、反対した。
敵に一矢も報いずに退くことは武士道に反すると感じ
たからだ。

それに対し、慶喜は今、幕府軍と新政府軍が戦うこと
は日本にとって、不利益しか生まぬことを説いた。
欧米列強が日本国内の動向をつぶさに監視している。
国内争乱が起これば、ただちにこれに乗じて、日本を
併呑してしまおうと考えている。

隣国の清(しん)がよい例である。
もはや、武士のメンツなどを振りかざして、国益をそぐ
ようなことはしてはならぬのだ。日本国内が一つにまと
まって、この国難に当たらなければならない。

国内統一には、天皇・朝廷を中枢として、まとまる必要
がある。幕府や武士たちのメンツを重んじる時ではな
い。もはや慶喜の心は、幕府や武士たちなど一部の人
々たちの面目などにこだわってはいなかった。

欧米列強は強力な兵器と巧みな外交手腕を用いて、
次々とアジアを植民地にしている。
日本もぼやぼやしていては、これらアジア諸国と同じ
運命をたどってしまう。
日本国民全員の幸福を守るための責任を負う職務に
就いているという自覚が彼にはあった。
武士階級は全国民の一割にも満たない人口である。
その武士たちがメンツをこだわって、失策を行い、日本
国民全員を外国の奴隷にするわけにはいかない。
慶喜が幕府の中の人間でも、一味も二味も違った英雄
であったのは、その意識をしっかりと持っていた点にあ
った。
大きな展望ができる男なのである。
将軍の面目など念頭にはない。天皇を立てて、国内を
一国も早く統一し、諸外国に対抗する富国強兵の道を
歩まなければ、日本の明日はない。
日本がいま置かれている状況を慶喜は、正しく見極め
ていた。

武士の憤りも判るが、今は日本史始まって以来の非常
事態である。日本生まれでない第三者が、日本の領土
を狙っているのである。
そのような時に、幕府の面目だの、挑発の仕返しなど
と息巻くのは愚の骨頂であった。

旧幕府と新政府が対立すれば、第三者の欧米列強が
喜ぶだけだ。国内の混乱に乗じて、日本の領土を全て
我が物にしてしまおうとするだろう。
それを防ぐには、徹底不戦をしなければならない。
慶喜の説得には、松平容保、定敬も反論のしようがな
く、ただただ、慶喜の下知に従うほかなくなった。

慶喜たちは大坂城の後門から脱出した。天保山につい
た一行は、幕府の旗艦・開陽丸に乗り込んだ。
艦内にいた副艦長の沢太郎衛門に江戸へ向けて、ただちに出航せよと命じ たが、沢は、艦長の榎本武揚が不在なので艦艇を動かすわけにはいかない と断固命令を拒否した。
艦長が戻るまで船を動かさぬという沢に対し、慶喜は艦長代理を沢に臨時で 命じ、艦艇の出航を命じた。

慶喜ら幕府上官が江戸へ出立したことを知った幕府軍は、意気消沈したが、 ここで引き下がるわけには行かない。幕府を愚弄する新政府軍に拮抗する 以外に武士の威厳は保てぬとして、幕府軍1万5000が京都に侵攻しようと した。
この幕府軍の動きに対して、新政府軍は京都郊外の地で薩長軍5000で迎え 撃った。西洋兵器を装備した薩長軍が有利に戦況を展開し、菊の御紋を掲げ た時点で、幕府軍の敗退は決した。この後、明治新政府が歴史の主導権を 握ることと成る。

この戦いより戊辰戦争は三年以上という長い戦争となり、東日本一帯で官軍 と旧幕府軍との熾烈な戦いが繰り広げた。

●偽官軍事件●

薩長両藩が討幕の密勅を朝廷より受け取る前に幕府は大政奉還を成し、幕 府をなくしてしまう。この徳川慶喜ら幕府側の思わぬ行動により、討幕の大義 名分を失った薩長両藩は、気勢をそがれた形となる。
しかし、1867年10月〜12月の間に武力行使で旧幕府派を討滅する意向で まとまった討幕派は、まず、旧幕府側から挙兵させる必要があるとして、西郷 隆盛の采配の下、相楽総三(さがらそうぞう※本名・小島四郎将満)ら草莽 (そうもう※在野で活躍した民間人)の志士たちを江戸・三田の薩摩藩邸に集 結させた。西郷は相楽に江戸市中にて放火・陣屋襲撃などを行い旧幕府側 を挑発した。

これにより、旧幕府側は江戸治安を名目に江戸薩摩藩邸を襲撃。相楽らは 西郷の用意した船に乗って、京都へと逃れ、西郷ら討幕派は旧幕府側の挙 兵と決め付け、旧幕府派の討幕軍を起こした。
西郷らの下へ帰還した相楽らは、鳥羽・伏見の戦い勃発直後に結成された 新政府軍の先鋒隊となる赤報隊(せきほうたい)に加わった。
相楽は、旧天領への「年貢半減令」を政府に建白してこれを採用されると、 赤報隊は行く先々で「年貢半減令」を掲げて民衆の恭順を図った。
しかし、明治新政府は、政権運営のために必要な財源に困り、三井ら豪商を 頼るなど財源窮乏の状態となり、急きょ「年貢半減令」を撤回。
赤報隊を帰京させる命令を出す。しかし、隊内部は意見が分かれて分裂し、 残った者と新加入者らで赤報隊は再編成され、隊名も改めた。
相楽らは東山道を東進し、暴走した。
新政府は相楽らを偽官軍として長野県下諏訪で捕らえ、1868年3月3日に相 楽ら8名を斬首。同月6日には桜井常五郎ら3名が斬首され、その他の者は 追放処分となった。
高松隊など他の草莽隊(10余隊)も同様の罪で処断された。

●江戸無血開城●

官軍総参謀・西郷隆盛と旧幕臣・勝海舟が江戸開城のための談判を開き、両者の緊迫した会談交渉の末、江戸は無血開城となった。

●彰義隊の戦い●

1868年2月、旧幕臣の渋沢誠一郎を頭首とする佐幕派志士集団・彰義隊(しょうぎたい)が結成された。
彰義隊の中心は一橋家の武士たちで、元将軍・徳川慶喜麾下の者たちであった。

江戸城が無血開城した後、江戸の町が明治新政府の統治下となると、彰義隊は、辻きりや強盗など悪行を働き、江戸の治安を悪化させ、新政府の統治政策を圧迫した。

大都市・江戸に潜み、なかなか彰義隊を一網打尽にする事ができず、苦慮していた新政府の下に京都より新たに総監が赴任された。
政府要人の大村益次郎は、彰義隊を一まとめに鎮圧すべく、江戸に散漫する彰義隊士に向けて、討伐の日時場所を指定。

明治政府が彰義隊に果たし状を叩きつけることで、彰義隊との決戦を図った。彰義隊は、上野の寛永寺(かんえいじ)にこもり、2000余名で挙兵し、新政府の挑発に応じた。

大村益次郎指揮の下、政府軍は最新西洋兵器を導入して、彰義隊鎮圧にあたった。激戦の末、彰義隊は敗退し、彰義隊の残党一部は榎本武揚の率いる旧幕府軍艦で箱館まで逃げ延びた。

●奥羽越列藩同盟●

1868年4月、明治新政府は仙台藩に対して、会津藩討伐を命じた。
これに対して、仙台・米沢藩など14藩は会津藩の赦免(しゃめん)を政府に嘆願したが、拒否されると鎮撫(ちんぶ)軍参謀の世良修蔵(せらしゅうぞう)を斬首して、他の11藩も加えて、さらに5月、北越6藩も参加して総勢31藩の大同盟となった。

長岡藩が官軍に攻撃されると同盟に従い会津藩などが長岡藩に援軍を派兵するなど結束固く政府に抵抗したが、次第に劣勢となり、脱退する藩も出て、会津藩の降伏とともに崩壊した。

●長岡城の戦い●

別名・北越戦争(ほくえつせんそう)ともいう。
長岡藩家老・河合継之助を中心に政府軍に抵抗。
ガットリング砲2門を駆使して、一時は政府軍を退けたが7月に長岡城は陥落した。
この間に長岡藩は奥羽越列藩同盟に参加し、会津藩の援軍を得ている。
人員不足だった政府軍は新たに戦場の隣国・信濃諸藩の藩士や農兵を加えて、激戦を乗り切った。

●会津の戦い●

佐幕派の中心格として活躍した会津藩は、鳥羽・伏見の戦い後、政府に恭順の意を表したが受け入れられず、奥羽列藩同盟を結成して、官軍との戦いに備えた。

北越戦争では、会津藩は長岡藩に援軍を送り、戊辰戦争でも最大規模の激戦が行われた。北越戦争後も会津藩は官軍との激戦を繰り広げ、猪苗代城(いなわしろじょう)、若松城(わかまつじょう)に立てこもって頑強に拮抗した。

8月21日、猪苗代城が陥落すると翌日から若松城が攻城戦となった。9月20日、会津藩は降伏し、同月22日に若松城は開城した。
会津戦争で名高い白虎隊(びゃっこたい)の悲劇は8月23日に起こった。

●五稜郭の戦い●

明治政府は、旧幕府軍の軍艦を引き渡すことを要求したが、榎本らはこれを拒否。軍艦を率いて箱館に向かい、途中で旧幕府軍の残党を加えた。

西ヨーロッパ式の花菱(はなびし)型城塞(じょうさい)の五稜郭(ごりょうかく)を造り、居城とした。
五稜郭は戦闘の時に城内の者に死角ができないように工夫された城で、最新鋭の防備要塞であった。

旧幕府海軍副総裁の榎本武揚らは明治政府に対抗して、独立政権樹立を表明。明治政府・欧米列強に使者を送り、独立宣言をした。
一種の共和政府の確立を目指したが、新政府軍の猛攻にあい、榎本らは降伏した。