大政奉還後の元将軍・徳川慶喜の去就をめぐり、小御所会議は議論紛糾
が展開した。元土佐藩主・山内容堂と公卿・岩倉具視との間で熾烈な議論
が繰り広げられたが、結局は慶喜は辞官・徳川領地を朝廷返納で決議した。
徳川慶喜は、この決議に恭順の意を表したが、血気にはやる幕臣たちは、
この処置に憤怒した。
江戸では、西郷隆盛の命令を受けた浪士組が、幕府に対して挑発行為を
起こしていた。江戸の町を守る幕府側は当初、この挑発を我慢していたが、
あまりの横暴な振る舞いについに激昂。江戸の薩摩藩邸を攻撃してしまう。
これにより、薩長は旧幕府を朝敵と見なし、弾劾する行動に出た。幕府側も一度ついた火はもはや消せない。
幕府と薩長の一触即発の事態に陥る。
慶喜はこの時、カゼをひいて寝ていたが、板倉勝静の報告で急報を知る。将兵の憤激振りは凄まじく、幕命といえども抑えきれないとのこと。
ちょうど慶喜は、中国の兵法書『孫子』を読んでおり、”敵を知り、己を知れば
百戦あやうからず”という一節を板倉に読んで聞かせた。
慶喜は、いま幕府軍に西郷や大久保に匹敵する大人物はいるかと板倉に
訊ねると、板倉はしばらく考えていたが「該当なし」と答えた。
さらば、その他、薩摩藩士・吉井友実など世に知られた頼みにできる拮抗した
人物は、今の幕府軍にいるかと重ねて慶喜は板倉にたずねた。
だが、板倉の答えはいずれも「なし」であった。
板倉の答えを聞いた慶喜は、”このようなありさまでは、たとえ戦っても、必勝
は望めぬ。いたずらに朝敵の汚名をこうむるだけならば、無駄な戦いは避けるべきだろう。”と述べ、不戦貫徹の意志を固めた。
慶喜は、たとえ逆臣の嫌疑をかけられ、刺し殺されよう
とも会津・桑名両藩を 諭し、不戦貫徹させよと板倉に
命じた。
だが、幕府軍将兵の憤激は収まらず、弱腰の幕命には
絶対従わない構えを 見せた。
これを見た、慶喜は説得は不可能と判断。
幕府軍各部隊の諸将を大坂城の大広間に集め、意見
を求めた。諸将の意見はみな一致しており、慶喜公の
出馬を懇願。
慶喜もこの要請に応じ、全軍に出立命令を下知。
諸将一同はみな勇躍して持ち場へと戻っていった。
そのスキに慶喜は、板倉、松平容保、松平定敬らわず
か4〜5人のお供を 連れて、江戸へ戻る決意を伝える
。この慶喜の決断に松平容保、定敬らは、反対した。
敵に一矢も報いずに退くことは武士道に反すると感じ
たからだ。
それに対し、慶喜は今、幕府軍と新政府軍が戦うこと
は日本にとって、不利益しか生まぬことを説いた。
欧米列強が日本国内の動向をつぶさに監視している。
国内争乱が起これば、ただちにこれに乗じて、日本を
併呑してしまおうと考えている。
隣国の清(しん)がよい例である。
もはや、武士のメンツなどを振りかざして、国益をそぐ
ようなことはしてはならぬのだ。日本国内が一つにまと
まって、この国難に当たらなければならない。
国内統一には、天皇・朝廷を中枢として、まとまる必要
がある。幕府や武士たちのメンツを重んじる時ではな
い。もはや慶喜の心は、幕府や武士たちなど一部の人
々たちの面目などにこだわってはいなかった。
欧米列強は強力な兵器と巧みな外交手腕を用いて、
次々とアジアを植民地にしている。
日本もぼやぼやしていては、これらアジア諸国と同じ
運命をたどってしまう。
日本国民全員の幸福を守るための責任を負う職務に
就いているという自覚が彼にはあった。
武士階級は全国民の一割にも満たない人口である。
その武士たちがメンツをこだわって、失策を行い、日本
国民全員を外国の奴隷にするわけにはいかない。
慶喜が幕府の中の人間でも、一味も二味も違った英雄
であったのは、その意識をしっかりと持っていた点にあ
った。
大きな展望ができる男なのである。
将軍の面目など念頭にはない。天皇を立てて、国内を
一国も早く統一し、諸外国に対抗する富国強兵の道を
歩まなければ、日本の明日はない。
日本がいま置かれている状況を慶喜は、正しく見極め
ていた。
武士の憤りも判るが、今は日本史始まって以来の非常
事態である。日本生まれでない第三者が、日本の領土
を狙っているのである。
そのような時に、幕府の面目だの、挑発の仕返しなど
と息巻くのは愚の骨頂であった。
旧幕府と新政府が対立すれば、第三者の欧米列強が
喜ぶだけだ。国内の混乱に乗じて、日本の領土を全て
我が物にしてしまおうとするだろう。
それを防ぐには、徹底不戦をしなければならない。
慶喜の説得には、松平容保、定敬も反論のしようがな
く、ただただ、慶喜の下知に従うほかなくなった。
慶喜たちは大坂城の後門から脱出した。天保山につい
た一行は、幕府の旗艦・開陽丸に乗り込んだ。
艦内にいた副艦長の沢太郎衛門に江戸へ向けて、ただちに出航せよと命じ
たが、沢は、艦長の榎本武揚が不在なので艦艇を動かすわけにはいかない
と断固命令を拒否した。
艦長が戻るまで船を動かさぬという沢に対し、慶喜は艦長代理を沢に臨時で
命じ、艦艇の出航を命じた。
慶喜ら幕府上官が江戸へ出立したことを知った幕府軍は、意気消沈したが、
ここで引き下がるわけには行かない。幕府を愚弄する新政府軍に拮抗する
以外に武士の威厳は保てぬとして、幕府軍1万5000が京都に侵攻しようと
した。
この幕府軍の動きに対して、新政府軍は京都郊外の地で薩長軍5000で迎え
撃った。西洋兵器を装備した薩長軍が有利に戦況を展開し、菊の御紋を掲げ
た時点で、幕府軍の敗退は決した。この後、明治新政府が歴史の主導権を
握ることと成る。
この戦いより戊辰戦争は三年以上という長い戦争となり、東日本一帯で官軍
と旧幕府軍との熾烈な戦いが繰り広げた。
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