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島津 斉彬
(しまづ なりあきら)
1809-1858
享年50歳。
薩摩藩主。
島津斉興の子。
□父・斉興がいつまでも藩主の座に居
座っていたため、斉彬は40歳になって
も藩主になれないでいた。
そんな折、斉興は寵愛する妾(めかけ
)・お由良(おゆら)の子・島津久光を
後継ぎにしようと思い立ってしまう。
こうなると藩の改革を推進したがる
改革派が斉彬を擁立し、逆に保守派
は久光を擁立する抗争の態(てい)を
現すようになった。
これが世にいう”お由良騒動(おゆら
そうどう)”(あるいは嘉永党崩れとも
いう)である。
□1851年(嘉永4年)、幕府老中・阿部正
弘の仲介によって、この騒動は収拾
することとなる。
正弘は、欧米列強の圧力が盛んに
なっている昨今では、軍事・外交面の
知識に明るく英明闊達(えいめいかっ
たつ)な斉彬の能力が日本には必要
と考えていた。
そのため、正弘は斉彬を薩摩藩主に
就かせ、斉興は隠居させて、藩政へ
の影響をなくさせるという裁断を
行った。
斉彬は42歳になって、ようやく藩主の
座に就くことができたのである。
□藩主となった斉彬は、人材登用と富国
強兵政策を藩政改革の主軸とし、
近代工場の先駆けとなる集成館(しゅ
うせいかん)を創設。
そこに反射炉や溶鉱炉を建設して、
大砲や火薬、ガラス、陶磁器などの
近代用具の製造を行った。
また、電信、ガス、電気の実験を行い
近代化の研究も盛んにした。
嘉永6年には幕府に要請して、大型船
建造の禁令を解禁させて、蒸気船を
建造し、急速に藩の軍事を洋式化して
いった。
□着実に藩政改革を推し進め、西南雄藩
のリーダー格となった、斉彬は次に
幕府要人や雄藩の藩主たちと独自の
情報網を築き、日本の難局打開を
話し合うようになった。
斉彬自身は積極的な開国論者であっ
たが、意見の食い違う諸大名とも
盛んに意見交換を行い、国難回避の
議論を大いに展開させた。
幕臣・阿部正弘、水戸藩主・徳川斉
昭、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主
・伊達宗城ら有力大名と図って、列藩
同盟を形勢した斉彬は、幕政改革に
まで口を出す勢いを見せた。
英明な人物を将軍に据えて、難局続き
の幕政改革を推し進めようとしたので
ある。
英明な人物として知られる一橋慶喜を
将軍後継者に擁立し、斉彬自身は
一橋派のリーダー格として活躍した。
時の将軍・徳川家定に斉彬の養女・
敬子(すみこ)※篤姫(あつひめ)を
嫁がせ、一橋慶喜を次期将軍とする
画策を行った。
□斉彬の推進する一橋派の活動は、
効力を発揮し、幕政の主導権を握る
かに見えた。
しかし、事はすんなりとはいかず、
幕府保守派の巻き返しに遭遇。
幕府大老・井伊直弼は、勅許を待たず
に条約調印を断行し、将軍継嗣問題
も南紀派が擁立する徳川慶福(とくが
わよしとみ)(※後の徳川家茂)に独
断で決定してしまう。
この横暴に憤激した斉彬は、鹿児島に
急きょ戻ると軍兵を率いて上洛し、勅
命をもって、幕政改革を断行しようと
した。
ところが1858年(安政5年)7月、軍事
演習の最中に斉彬は急死してしまう。
コレラにかかったと伝えられている。
計画推進の半ばにして無念の病没と
なった斉彬に対し、薩摩藩士たちは、
お由良の怨念による久光派の毒殺で
はないかと勘ぐった。
斉彬没後、薩摩藩は保守派が実権を
握り、島津久光の子・忠義が家督を
継ぐが、実際は久光がその後見とな
り、藩政の実権を牛耳ることとなった。
□斉彬の目指す志は、彼の死によって
途絶えることはなかった。
斉彬が手塩にかけて育成させた
西郷隆盛に志は引き継がれたからだ。
大志を抱く西郷を斉彬は側近にし、
他藩との折衝に当たらせ、西郷の能力
を限りなく引き出す体学問を学ば
せていたのだ。
この斉彬の先見性には、驚異的なも
のを感じる。
藩政改革や幕政改革といった大きな
事業を手がけた斉彬であったが、
斉彬自身が最も幕末維新の時代に
大きな功績を残したものを挙げよと
いうならば、西郷隆盛を登用し、その
才覚を如何なく伸ばさせたこの一点
にあると断言できる。
どんなに英明な改革を推進したとして
も、その事業を引き継いでくれる有能
な人材がなくては、意味がない
その意味で、斉彬の目指す志を継承
してくれる存在の確保をしっかりと行っ
た所に他の雄藩の藩主たちにはな
い独特の功績が斉彬にはあったので
ある。
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↑島津斉彬-写真
薩摩藩の近代化を推し進めた名君。西郷隆盛など有能な若者を登用し、日本近代化の原動力を作った。
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