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橋本 左内
はしもと さない
1834-1859
享年26歳。

福井藩士。
名は弘道。号は景嶽。

□15歳で緒方洪庵の適々斎塾に入門し
  医学・洋学を学ぶ。
  師・洪庵に”池中の亢龍(こうりょう)”
  と言わしめた秀才であった。
  洪庵の後継者と目されていたが、師・
  洪庵の指導力の弱さに幻滅し、蘭学を
  役立たずの学問と一蹴して適塾を去っ
  ている。

  適塾は当世第一の名門塾として全国に
  知れ渡っていたが、そのために塾生が
  二千〜三千と膨らみ、洪庵の指導を直
  接受けられるものは、一握りの塾生だけ
  であり、一番弟子が二番弟子を教え、二
  番弟子が三番弟子を教えるといった段
  階的な教授になってしまい、塾生の隅々
  まで教化が浸透しな
  かった。

  医者でもあった洪庵は、午前中に講義を
  行い、午後は往診にまわるという生活で
  、しょっちゅう講義がおざなりと成って
  いた。
  適塾の塾生の中からは、このような不手
  際な教授のため、学問から遠ざかり、傍
  若無人に暴れたり、遊郭に心酔したりし
  て、身を滅ぼす者が続出したという。

  ”空理空論よりも実論を”を口癖にしてい
  た左内は、適塾の荒廃に失望し、郷里
  に帰ってしまった。

□藩医だった父が没したため、18歳で藩医
  となる。

□1854〜55年にかけて江戸に遊学する。
  藤田東湖、西郷隆盛らと交遊を結ぶ。

□福井藩主・徳川慶永にその類まれな才能
  を認められ、御書院番に抜擢される。
  さらに藩校・明道館の学監を務める。

□1857年、藩政改革に携わり、由利公正ら
  とともに奮闘する。

□雄藩連合による統一国家を構想し、奮起
  する。

□将軍継嗣問題では、一橋慶喜の擁立に
  尽力するが、安政の大獄にあい、刑死
  する。

□著書に<橋本景岳全集>がある。




 若くして学問をよく収得し、藩政改革に従事した。
 藩主・慶永とともに幕政改革に乗り出したが、井伊大老の大獄によって、無念の刑死となった。