松平 春嶽 (まつだいら しゅんがく)
1828-1890 享年63歳。福井藩主。

横井小楠を招き、藩政改革を成功させ、佐幕派の雄藩として、幕末動乱
に活躍す。幕政改革を目指すも、後に徳川慶喜と意見の食い違いを成す。

中根 雪江 (なかね ゆきえ)
福井藩家老。

橋本左内や由利公正など俊英な藩士たちを続々と藩政改革に投入。
維新後は、新政府の政策成就に大いに貢献す。

由利 公正 (ゆり きみまさ)
1829-1909 享年81歳。福井藩士。

あの坂本龍馬から天下の逸材と賞賛された越前藩の新星。
戊辰戦争が勃発すると文官としての才覚を発揮し、五箇条の御誓文を起草す。

松平 直廉 (まつだいら なおきよ)
福井藩藩主。

藩主・慶永が幕府よって、蟄居させられると幕命によって藩主の座に就く。
佐幕派の姿勢を取り、幕末動乱を突き進んだ。

橋本 左内 (はしもと さない)
1834-1859 享年26歳。福井藩士。

越前藩の教育改革を成し、条約問題・将軍継嗣問題が現ると左内は京都へ
赴き、尊攘思想を公卿に説いて回る。だが、安政の大獄にて夢途上にて死す。

福井藩 ふくいはん
≪場所≫ 福井市


 福井藩の藩祖は、徳川家康の次男・結城秀康である。
秀康の嫡子・松平忠直が二代藩主となって以降、代々松平
姓を名乗った。

 幕末動乱を迎えるに当たって、福井藩からは俊逸な藩主
が出ている。1838年(天保9年)、田安家から迎えられた
16代藩主・松平慶永は、藩政改革を成し、幕政改革にまで
乗り出して、大いに政局の舞台へと躍り上がったのである。
 橋本左内を登用し、藩政改革を推進した慶永は、失墜して
いた藩札の信頼回復を図るとともに、藩内の殖産興業を促
進させて、財政の増進を目指した。

 藩の財政が回復すると慶永は親藩としての立場をフルに
活かして幕政改革に乗り出した。水戸の徳川斉昭、薩摩の
島津斉彬と協力し合い、一橋慶喜を将軍継嗣に擁立し、
対外政策に対しても幕府に意見した。

 しかし、井伊大老の出現によって、慶永たちの幕政改革は
くじかれ、安政の大獄で慶永は隠居謹慎を命ぜられる。
その後、慶永は春嶽(しゅんがく)と号して、17代藩主・松平
茂昭を補佐して、藩政に参与している。

 政局から離れていた春嶽であったが、薩摩の島津久光が
強引に軍勢を率いて上洛すると幕府を武威にて脅し、幕政
改革を強請したため、春嶽は再び幕府要職として返り咲い
ている。
 政事総裁となった春嶽は、将軍後見となった一橋慶喜と
ともに幕政改革を断行していった。しかし、かつては同志と
してともに幕政改革を目指した春嶽と慶喜であったが、ここ
にきて、意見の食い違いを見ている。
 春嶽は熊本から横井小楠を招いて、知恵袋として登用し
、小楠の意見によって、春嶽は穏便に政事をこなすことを
目指したのに対して、慶喜は若さの勢いからか、強硬な
政策を推し進め、幕府の権威を天下に示そうと息巻いた。
 このため、両者の対立はしばしば起こり、幕政改革に多大
な支障を来たすに至っている。

 その後、戊辰戦争が勃発すると春嶽は、福井藩の藩論を
勤王に統一し、新政府に協力することにした。
2000名の福井藩兵を出陣させ、北越戦争、会津戦争に参軍
し、官軍の一翼を担ってる。戦後は戦功により1万石を加増
されている。