徳川 慶勝
とくがわ よしかつ
1824-1883
享年60歳。

名称:義恕、秀之助、盛斎、月堂、梅柳園
身分:尾張藩主。

□尾張藩徳川家の分家である美濃高須藩主・松平義建
  (まつだいらよしたつ)の次男として江戸にて誕生。
  その後、尾張藩徳川家へ養子として入り、尾張藩
  十四代藩主となる。

□1849年(嘉永2年)に尾張藩主の座に就いた慶勝は、
  藩政改革に着手。軍備強化を目指し、海防強化を
  図った。特に知多半島の海防施設充実に力を入れ、
  近代水軍を取り入れている。

□藩政改革の充実を図る一方で、慶勝は開明的な諸
  大名と連携体制を整えていく。薩摩藩主・島津斉彬
  、福岡藩主・黒田斉溥、福井藩主・松平慶永らと共に
  海外情報の研究や情報交換などを実施。
  幕政改革も検討し、一橋慶喜の次期将軍擁立運動
  を展開した。

  1858年(安政5年)に大老・井伊直弼が将軍継嗣を
  独断で取り決めてしまうとこれに激怒した慶勝らは、
  井伊大老の詰問を成そうとしたが、不時登城の罪を
  逆に問われ、隠居・謹慎の処分を受けてしまう。
  その後、1860年(万延元年)に井伊大老が桜田門外
  に散ると罪を許され、藩政に復権した。

□1864年(元治元年)に第一次長州征伐が起こると、
  幕府は御三家筆頭の尾張藩に征討軍総督の大任
  を命じる。
  慶勝は参謀職に就いていた薩摩藩の西郷隆盛を
  頼り、西郷の寛大な処置に満足し、戦闘を成すこと
  なく軍勢を引き上げている。
  これには、幕臣たちから手ぬるいとの不評を買い、
  京都にいた一橋慶喜からも”慶勝は西郷にたぶらか
  されている”と激しく批判された。

□戊辰戦争では、藩祖・徳川義直の訓戒を守り、尊王
  姿勢の貫徹を行った。勤王派側に立った慶勝は維新
  後、朝廷の議定となり、御所の警備を担当した。