尾張藩 (おわりはん)
≪場所≫ 名古屋市


尾張藩は、尾張一国に美濃国の一部を領有する幕府親藩
の中でも最大規模の石高を誇った。
それだけに佐幕派の中枢としての行動を期待されていたが
、藩内の思想には根強い勤王論理もあり、藩主・徳川慶勝に
とっては、頭の痛い境遇であった。

将軍継嗣問題が盛んになると佐幕派雄藩として、慶勝は水戸
藩の徳川斉昭や福井藩の松平慶永らと同調して、一橋慶喜
を将軍候補に挙げたが、慶勝にとっては、もっと重要な問題
があった。
日米通商条約の調印問題に慶勝は大いに危惧していた。
開国となることで、海防力のない現段階での実状を把握して
いた慶勝は、日本滅亡の危機ととらえていて、調印には慎重
になるべきと考えていた。

しかし、勅許がなかなか下りないことにいらだった井伊大老
は外交は好機を逃しては愚策として、独断で条約調印をやっ
てのけた。
これに憤慨した慶勝は、徳川斉昭や慶永らと奮起して、登城
日でもないのに勝手に江戸城へと乗り込み、井伊大老を
詰問しようとした。
だが、逆に井伊大老の逆襲に遭い、隠居・謹慎の処分を受
けてしまう。

戊辰戦争が勃発すると尾張藩も公武合体派などといった
あいまいな態度では済まされなくなり、勤王か佐幕か去就を
はっきりしなくてはならなくなった。
御三家の筆頭に掲げられている尾張藩は、当然において
佐幕派となるものと周囲のものは誰しも思っていた。
徹底佐幕派を通す会津藩の藩主・松平容保や桑名藩の
藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)は慶勝の実弟である。
兄弟打ちそろって佐幕派になることは必須と見られていた。
しかし、慶勝は人々の予想をはずす奇異な行動をとった。
それは、勤王派になるというものだった。
尾張藩祖・徳川義直(※徳川家康の九男)が著した「軍書
合鑑」に「王命によって催される事、すなわち、保元・平治・
承久・元弘の乱のような兵乱が起きて、官兵が動員される
事態になれば、いつでもこの官軍に属すべし。一門のよしみ
を考慮して、かりにも朝廷へ弓を引くべからず」と厳しく誡め
ていたのだ。

この藩祖の訓戒は、まさに戊辰戦争に当てはまる事柄で
あった。慶勝はその訓戒をしっかりと守り、勤王派としての
行動に徹したのである。
鳥羽・伏見の戦い後、大坂城を託されていた慶勝であった
が、尾張藩内が派閥抗争を繰り広げているとの知らせを
受けると、早々に帰藩して、事態の収拾にあたった。
抗争の元凶と思われた重臣三名を斬首し、ついで数日の
間に懲罰の対象を拡大させ、14名を斬った。
この”青松葉事件”の勃発によって、尾張藩は藩内の佐幕派
を一掃して、藩論統一を成し、勤王としての忠誠心を固めた
のである。

その後、尾張藩内ではさまざまな勤王派集団が結成され、
新政府の幕府征討軍に従軍した。





徳川 慶勝 (とくがわ よしかつ)
1824-1883 享年60歳。尾張藩主。

佐幕派筆頭と見なされ、幕府より重責を負わされたが、藩祖・徳川義直の
教えを守り、勤王の教えを忘れず、戊辰戦争では勤王姿勢を表す。

成瀬 正肥 (なるせ まさみつ)
尾張藩家老。

藩主・慶勝をよく補佐し、公武合体策の実現を目指す。長州征伐戦では手勢を
率いて従軍。公武合体策を最後まで臨んだが戊辰戦争にて勤王派となる。

田宮 如雲 (たみや じょうん)
尾張藩重臣。

藩政改革に着手し、後には幕政改革にも介入する。安政の大獄にて
幽閉となるも復権を果たし、戊辰戦争では、勤王姿勢を貫いた。