牧野 忠恭
まきの ただゆき

身分:長岡藩主。

□1858年、長岡藩主・牧野忠雅が没し、
  牧野家11代目当主として忠恭が家督を継ぐ。
  ついで、奏者番、寺社奉行、京都所司代と
  幕府の重用職に就任した。
  この幕府要職就任に対処するために忠恭は
  広く人材登用を実施し、家督相続して間もない
  河井継之助を外様吟味役に抜擢した。

□老中にまで昇格した忠恭は、益々幕閣に重きを
  成したが、極めて困難な政局に対処する必要を
  迫られた。
  幕府が早晩倒壊すると察した河井継之助の
  進言により、早々に幕府要職を辞任した。

□1867年、忠恭は藩主の座を世子・忠訓(ただく
  に)に継がせ、藩政の後見役となった。

□1868年、官軍の北上に伴い、旧幕府軍の先鋒
  として、越後の地に激戦を繰り返した長岡藩は、
  兵器劣勢の戦況により、敗退。長岡藩は滅亡
  するに至る。