稲垣 平助 (いながき へいすけ)
1854-1931 享年78歳。長岡藩家老

革新派の河井継之助と対立した恭順派の頭目。
北越戦争では、官軍の猛攻に耐え切れず、投降した。

牧野 忠恭 (まきの ただゆき)
長岡藩主。

北越の雄藩であった長岡藩は、幕府から多くの要職を任せられる。ついには
老中にまで昇格するも、時運を得ずして、幕府倒壊を見る。

河井 継之助 (かわい つぐのすけ)
1827-1868 享年42歳。長岡藩家老。

”北越の蒼龍”と賞された長岡藩屈指の俊逸。中立武装の姿勢を表すも官軍
に受け入れてもらえず、北越戦争を引き起こす。

山本 帯刀 (やまもと たてわき)
1845-1868 享年24歳。長岡藩家老。

聡明果断の英才にして、河井継之助を重用した。北越戦争にて激しく
官軍と戦うが、戦況挽回ならずして、降伏。無念の斬首を見る。

二見 虎三郎 (ふたみ とらさぶろう)
1829-1878 享年50歳。長岡藩重臣。

佐久間象山に師事し、吉田松陰とともに”象門の二虎”と称された逸材。
現実を重んじ、河井継之助とは対立。維新後に有名な”米百俵”の逸話を残す。

長岡藩 ながおかはん
≪場所≫ 長岡市


 長岡藩の藩祖は、徳川家譜代の家臣であった牧野忠成
である。譜代大名として長岡藩は幕末維新を迎えている。

 幕末動乱が始まる少し前から長岡藩主は、幕府に任用
されて、要職を歴任している。9代藩主・牧野忠精は1787
年(天明7年)に寺社奉行となり、その後も大坂城代、京都
所司代を歴任し、ついに幕府老中にまで登りつめている。

 忠精の嫡子で10代藩主・牧野忠雅も幕府要職に就いて
いる。幕末動乱期には、13代藩主・牧野忠恭(まきのただ
ゆき)が幕閣に入り、佐幕の諸事に務めている。

 譜代大名として佐幕の姿勢を見せていた長岡藩にあって
、武装中立という立場を貫こうとしたのが河井継之助で
ある。河井は陽明学を熱心に学び、蘭学者の佐久間象山
に師事し、その後は陽明学の大家・山田方谷を訪ねて教え
を得ている。
 その後、西洋軍制を目指し、当時日本国内に3門しかなか
ったガトリング砲を2門も買い付けて、長岡藩軍に配備して
いる。ついで、大量の武器弾薬を買い付けて、官軍来襲に
備えている。

 戊辰戦争が勃発し、北越にも官軍が進軍してくると長岡藩
は当初、中立の立場を取ることを官軍に伝えたが、官軍は
そのような中途半端な去就を受け入れず、勤王か佐幕かを
はっきり取るよう迫った。
 ついに小千谷談判での和平交渉は不成功に終り、長岡藩
は奥羽越列藩同盟に加盟するに至っている。こうして、北越
の地は激戦の戦場と化したのである。
 会津藩の援軍もあって、一時は官軍を退け、優勢の立場
を得たが、それもつかの間で、物資と西洋兵器にものをい
わせて、再び攻勢に出た官軍に長岡藩は、再度打ち負かす
勢いを見せることはできなかった。
 河井も自らガトリング砲を操縦して、敵軍を蹴散らしたが、
敵弾を被弾して、重傷を負い敗退を余儀なくされた。
その後、会津へと落ち延びた長岡藩軍であったが、藩軍の
要とも言える河井継之助が死去し、大いに士気は低迷した。
 こうして、官軍に徹底抗戦を強いた長岡藩は、激戦の末に
官軍に占領される形で降伏し、明治維新を迎えている。



諸学問に栄達し、長岡藩の軍制整備の任にあたる。
激動の明治維新を向えずして、夭逝す。

鵜殿 団次郎 (うどの だんじろう)
1831-1868 享年38歳。長岡藩士。


北越戦争にて、朝敵の汚名を受けた長岡藩の名誉挽回を図る。
近代工業の増進を進め、近代日本の栄達に貢献す。

三島 億二郎 (みしま おくじろう)
1825-1893 享年69歳。 長岡藩士。


北陸の雄藩として名をとどろかせていた長岡藩最後の藩主。奥羽越列藩
同盟を結成し、散々に官軍を苦しめるも敵わず、降伏の憂き目を見る。

牧野 忠訓 (まきの ただくに)
長岡藩主。