鵜殿 団次郎
うどの だんじろう
1831-1868
享年38歳。
長岡藩士。
号は、春風(しゅんぷう)。
□団次郎は、早くから藩校・崇徳館に学び、
1855年、25歳の時、江戸に遊学し、
蘭学と英学を修得。その外国知識を
見込まれ、後に幕臣ともなった。
□団次郎は長岡藩が生んだ洋学研究の
逸材であり、幕府の外国研究を専門と
する蕃書調所の教授となる。
測量、天文、航海学など西洋の進んだ
学問を熱心に勉学教授した。
特に数学においては、団次郎は当時
の日本国を代表する権威者であった。
□しかし、江戸においては、急進改革を
唱える河井継之助としばしば対立し、
読書の方法について議論を戦わせて
いる。
団次郎は、「読書においては、手当たり
次第に広く読むのがいい、自己の意見
が片寄らない」と主張し、その学者と
しての開明さを現した。
しかし、現実変革においては、理想を
追求することは難しいとして、幕藩体制
の限界を示した。
□1866年(慶応二年)には、長岡藩の要請
を受け、長岡藩の軍制改革意見書を
示した。
□1868年、鳥羽伏見の戦い後、天下の形勢
を元に戻すことはできないとして、せめて
関八州の領地を全うすべきである旨の
意見書を提出した。
同年12月、明治維新も激動を増した中、
長岡藩と日本国の行く末を案じながら
38歳の若さで没した。
長岡藩にとっても、日本国にとっても、
これから迎えようとする西洋立国日本の
礎を築く貴重な逸材を失ったことは、
非常に惜しまれることであった。