河井 継之助
かわい つぐのすけ
1827-1868
享年42歳。
名称:秋義、号は蒼竜窟
身分:越後長岡藩士。
□”北越の蒼竜(ほくえつのそうりゅう)”と
呼ばれた継之助は、長岡藩の
近代化とために努力した逸材であった。
河井継之助は、長岡藩士・120石取りの
代右衛門秋紀の子として生まれた。
子供の頃から腕白で、人の忠告を素直に
聞かない強情張りであったという。
□少年時代は、古義学(こぎがく)を藩校で
学び、成長するとともに実践重視の陽明学
へと傾倒していった。
十七歳の時に継之助は、鶏を裁いて、
王陽明が祭る祭壇に鶏肉を供え、人民
藩是のために立志し、誓明したという。
□青年期には、読書に没頭し、良書を見つ
けると、その書の一字一句を暗記し、
我が身の行動の規範と成したという。
□1852年(嘉永5年)、継之助は、江戸に
遊学し、佐久間象山、古賀謹一郎に
師事する。
□継之助が生涯を通じて、敬服した人物は、
備中松山藩の儒者・山田方谷(ほうこく)で
あった。
彼は、方谷を先生と呼び、希代の英雄と
讃え、方谷が唱える思想を熱心に学んだ。
1859年(安政6年)には、自ら松山藩まで
足を運び、直接、方谷から陽明学を学び、
藩政改革の方法を習得している。
次いで、長崎などへも西国遊学を果たし、
見聞を広めるとともに、会津藩の秋月悌次郎
などとも交友をはかり、人脈を広げている。
□継之助が江戸遊学中に、長岡藩十一
代目藩主・牧野忠恭が京都所司代に
任命され、京都へと向かうことになると、
継之助もこれに同行した。
京都で政情を探った継之助は、急激に
幕政体制が崩壊していることを目の当
たりにし、長岡藩の藩政を変更すべき
必要性を痛感した。
継之助は、藩主・忠恭に一刻も早く、
幕府要職である京都所司代を辞職する
ように進言。
国許への帰国をはかり、長岡藩の生き
残りを模索するようになる。
日本国内が戦乱になることを見越して、
継之助は、西洋砲術の研究を進め、
積極的な開国論を唱えた。
富国強兵の理念を継之助は、長岡藩の
藩是としたのである。
□継之助は、長崎へ遊学し、見識を広めると
、長岡藩の藩政改革に乗り出す。
新徴組の村上俊平や会津藩士との意見
交流を進め、長岡藩の生き残りを目指した。
藩の財政改革にも着手し、短期間のうちに
長岡藩を富国強兵へと変貌させた手腕は、
ひとえに継之助の力量に拠るところが
大きかった。
□民衆が豊かに富み、安定した農業と商業に
よって、長岡藩を繁茂させるという計画を
立てた継之助は、「水腐地の排水」や「窮民
の救済策」などを著して、経済発展を目指
している。
また、人材育成を目指して、入寮教育も
始め、学問の流布にも尽力した。
□1867年(慶応3年)10月、王政復古の大号令
が出されると、継之助は、藩主名代の肩書き
で、徳川政権の復活と政権維持を建白して
いる。
□戊辰戦争の際、中立を唱えたが北陸征討の明
治政府軍に入れられず、戦争が勃発。北越戦
争が起こる。
長岡藩は、わずか7万4000石の小さい藩で
あったため、東西両陣営に与することなく、
中立の立場を取った。
しかし、新政府軍が北陸地方に進撃してくると、
新政府への恭順姿勢を取るように促されると
継之助は、小千谷へと向かい、新政府との
協議を行った。
平和を第一に考えていた継之助であったが
新政府軍の無条件降伏に我慢成らず、交渉
は決裂。
長岡藩は、新政府軍と戦うこととなった。
□継之助は、長岡藩兵1300余の軍勢を率いて、
新政府軍と激突。欧米より購入していた
ガトリング砲による乱射攻撃で、新政府軍と
互角の戦いを繰り広げた。
□新政府軍に一度は、占領された長岡城を
巧みな奇襲作戦で、一時奪還することに
成功するが、継之助自身がこの戦闘で
負傷してしまう。
再起を目指して、会津へと逃れる途中、
傷口が悪化し、継之助は無念の戦死と
なった。