三島 億二郎
みしま おくじろう
1825-1893
享年69歳。
名称:鋭太郎(えいたろう)。
身分:長岡藩士。
□長岡藩士・伊丹市左衛門の次男として誕生。
□兄・政由(まさよし)が伊丹家を継いだことから
1844年、億二郎は父・市左衛門の知友・三島
徳兵衛に男子がいなかったことから請われて
養子となった。
□兄・政由は早くから頭角を現し、藩校・崇徳館(
そうとくかん)の教授・山田愛之助がつくった
治国経済説を主軸とした野僕を尚んだ桶宗(
おけしゅう)という一党の首領として藩内の若
手を指導した。
しかし、政由は29歳の若さで没したため、伊
丹家は三男・秀三郎が継ぐことと成った。
桶宗党には、河井継之助、小林虎三郎らとと
もに億二郎もこれに加わった。
□1853年6月、浦賀にペリーが来航すると江戸
在勤中だった億二郎は船を雇って、ペリー艦
隊の間近まで行き、つぶさにその精悍な軍艦
を観察した。
それでも物足りない億二郎は、幕府役人が久
里浜で米国の国書を受け取る時、佐賀藩の便
宜で槍持ちとしてその場に列して、米兵に近接
し、その隊伍の整然さ、規律の厳格さに触れ、
「六月なのに寒さを感ずる」(”六月猶ほ寒さを
覚ゆ”)と評した。
当時、最新鋭の軍事力を目の前にした、億二
郎の目には、攘夷の思想など夢物語だと思っ
たに違いない。
□1854年、国書の返事をもらいにペリーが再来
航すると、この時次席老中兼海防掛だった長
岡藩主・牧野忠雅は、長岡藩政の富強策に
ついて広く藩士に意見を求めた。
河井継之助、小林虎三郎、鵜殿団次郎春風
らとともに億二郎も意見書を提出。
最新鋭の西洋兵器配備を主張したが、藩内
門閥の抵抗にあい職を免責されてやむなく
帰藩した。
□帰藩した億二郎は、同様に帰藩していた継之
助とともに諸藩事情を得るため、奥州各地を
遊歴した。
新潟から船で出羽温海(あつみ)へ渡り、庄
内を経て石巻、金華山、松島、仙台などを巡
り歩き、名勝・古跡を探索。
それとともに各藩の政治状況や藩論を見聞
した。
□億二郎の性格はいたって温厚沈着にして表
に出て陣頭指揮をとる人物ではなかった。河
井継之助ら雄才の補佐的な立場をとって行動
した。ゆえに継之助ら諸藩士から絶大な信任
を得ていた。
□小千谷談判(おぢやだんぱん)が決裂すると
継之助は、わざわざ億二郎に会いに行き、
開戦のやむなきを伝えた。
この時、億二郎は平生の所信と違うではない
かと問うと、継之助は自らの首級と3万両を官
軍に提出すれば、或いは戦争回避が可能か
もしれないと述べた。
それを聞いた億二郎は、継之助を一人死な
せては平然と己一人生きることは出来ないと
して生死をともすることを誓ったという。
□かくして、長岡藩は官軍と熾烈を極める激戦を
越後の地に繰り広げた。
億二郎の活躍は、戦後の継之助や長岡藩な
きあとの復興政策であった。
戊辰戦争後の壊滅的な打撃をこうむった長岡
領民のために救助米貸下げの実現や長岡藩
廃藩に至る実務、帰農、帰商の促進、産物会
所、女紅場の開設など産業復興、小学校・長
岡洋学校等の教育促進整備、病院や銀行の
設立、さらには殖民のための北海道開拓と移
民の手配など億二郎の功績には枚挙にいと
まがない。
官軍に反抗した賊軍の将という汚名を背負い
ながら、億二郎は戦後の人々に”戦後を生き
る人々”のあるべき姿を世に示し、破壊する武
人とは対比する再興に命をかける偉大な一近
代市民としての偉業を果たしたのである。
□1893年、69歳で没するまで億二郎は、不休不
屈の戦後再興を行った。