二見 虎三郎
ふたみ とらさぶろう
1829-1878
享年50歳。
名称:小林虎三郎とも名乗る。
字は、炳文(へいぶん)。
号は、病翁(へいおう)。
□長岡藩の英雄・河井継之助とは遠縁にあたる。
永いこと病気がちであったことから号を病翁(へ
いおう)と称した。
□幼い頃から英才振りを発揮し、麒麟児との誉れ
を受けて育つ。
藩命を受け、江戸遊学をして、佐久間象山の
門下となる。
このとき、佐久間象山の塾には、後に長州藩の
英雄となる吉田寅二郎(松陰)が同門として
おり、虎三郎とともに二人は”象門の二虎”と
称せられた。
□過激な現実変革を目指す河井継之助とは
対象的に学者肌だった虎三郎は、理論的に
確実な道を選ぼうと欲し、たびたび藩政方針
について河井継之助と対立した。
□戊辰戦争後、貧窮にあえぐ長岡藩士たちのため
に、支藩の三根山藩から救援の米百俵が長岡
藩に送り届けられた。
これを早く皆に分けよと迫る藩士たちに対して、
虎三郎は「今日明日食えないのだからこそ、
将来のために学校を建てるのだ」と皆を説得し、
藩民の子弟のために国漢学校を建て、長岡の
栄華復興を目指した。
この逸話は、山本有三(ゆうぞう)の戯曲「米百俵」
で世に知られている。
□1871年(明治三年)、それまで長岡復興のために
力戦奮闘してきたがこの年、全ての役職を退い
た。
1872年(明治四年)8月には長岡から江戸に去り、
一時期、土佐にも旅をしたが、1878年八月、弟・
雄七郎宅で没した。
享年50歳。