南部 利剛 (なんぶ としひさ)
盛岡藩主。

終始、藩政を家臣たちに任せ、温和な態度を保った。
戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の中核を担うも、時勢を見誤り、領土を失う。

東 中務 (あずま なかつかさ)
盛岡藩家老。

改革派家老として、藩政改革に携わる。尊王思想を強く持ち、内戦による
愚鈍さを説いた。

楢山 佐渡 (ならやま さど)
盛岡藩家老。

藩の保守派筆頭として、活躍。奥羽越列藩同盟では中心人物を演じ、自ら
藩兵を率いて出陣。官軍と激戦するも敗退し、自刃す。

三戸 式部 (さんのへ しきぶ)
盛岡藩重臣。

佐幕派の姿勢を見せ、楢山佐渡を支持。楢山が率いる藩軍が官軍に大敗する
と恭順姿勢に転換。新政府への降伏の使者を務める。

大島 高任 (おおしま たかとう)
盛岡藩士。

江戸にて西洋学識を培い、帰藩後は日本最初の溶鉱炉製鉄所を建造した。
後に”日本鉱山業発展の父”と謳われた。

盛岡藩 もりおかはん
≪場所≫ 盛岡市


 幕末期に盛岡藩では、全領土を揺るがす三閉伊一揆
が勃発し、藩政は揺れに揺れた。藩主が南部利剛に
なって、ようやく藩政は安定を見るが、藩内の内乱に
よって、盛岡藩は多大な消耗を成したのであった。
 その後、南部藩の藩政は楢山佐渡と東中務による
二頭執政が布かれ、藩政改革に着手している。

 戊辰戦争が勃発すると盛岡藩では、佐幕・勤王のどち
らにつくべきか議論が紛糾したが、結局は奥羽越列藩
同盟に組することに決まった。
 1868年(慶応4年)6月、奥羽越列藩同盟が成ると
仙台藩はにわかに不穏な動きを見せ、仙台藩に入って
いた新政府の奥羽鎮撫総督・九条道孝らは、身の危険
を感じて、盛岡藩に助けを求めてきた。
 しかし、盛岡藩はこの要請を拒絶し、九条たちを打ち
払った。仕方なく九条たちは久保田藩を頼り、こうして、
奥羽地方は完全に佐幕派が制覇することとなった。
 かろうじて久保田藩が新政府側を支持していたため、
盛岡藩はこれを機に一挙に久保田藩を討滅しようという
意見が出て、討伐軍が派兵された。
 最初は戦闘を優勢に進めた盛岡藩軍が久保田藩の大
館城を落し、気勢を挙げたが、その後は新政府側によ
る大量の補給物資が久保田藩に到達し、戦況は一変
した。
 援軍を得た久保田藩が息を吹き返してくると盛岡藩軍
は敵地で持久戦を強いられ、激しい戦闘を成した。結果
は、消耗戦となってしまい盛岡藩軍の劣勢に終る。
 列藩同盟側が敗色濃くなったことを受けて、盛岡藩は
兵団を撤退させ、1868年(明治元年)9月24日に官軍に
全面降伏を成した。
 徹底抗戦を主張し、盛岡藩の藩政を取り仕切っていた
楢山佐渡は責任を負って、翌年に斬首されている。