あさの なりきよ (あさの なりたか)
芸州藩主。

幕府より普請命令を受け、莫大な出費して、忠誠を示したが、藩領で飢饉が
起こり、以後は幕府に不満を募らせていく。

浅野 右近 (あさの うこん)
芸州藩士。

藩の軍備強化を目指し、西洋式軍制を取り入れた。
長州征伐を通して、反幕感情を爆発させ、以後は長州藩と行動を共にする。

辻 将曹 (つじ まさとも)
芸州藩士。

藩の改革を推進し、藩軍の西洋式軍制化を図った。
一貫して長州藩を支持し、後には倒幕運動に参画。維新時代を切り開いた。

野村 帯刀 (のむら たてわき)
芸州藩士。

藩政の刷新にともない、藩の執政という大抜擢を見た。京都にて勤王運動を
盛んに行い、多くの芸州藩士に影響を与えた。

船越 衛 (ふなこし まもる)
芸州藩士。

尊攘思想を主張し、多くの有志と交わる。
長州征討戦では和平を主張し、和解実現に奔走す。

芸州藩 げいしゅうはん
≪場所≫ 広島市


 1864年(元治元年)に起きた第一次征長戦では、芸州藩
は幕命を受けて、征討軍の本拠地が芸州藩領内に作られ
、前線基地となった。
 芸州藩も信州上田藩とともに芸州口に布陣して、先鋒を
成している。
 1866年(慶応2年)に起きた第二次征長戦でも、芸州藩
は芸州口の先鋒を命ぜられているが、芸州藩は長州藩に
同情的な立場を示し、幕府から叱責を受け、芸州藩の
年寄・野村帯刀と辻将曹(つじしょうそう)が謹慎処分を
受けてしまう。
 しかし、この幕府の横暴に憤慨した芸州藩士が幕府に
抗議したため、幕府はわずか2日後に両者を釈放し、芸州
藩に謝している。
 幕府は改めて芸州藩に先鋒を命じたが、芸州藩はこれ
を拒絶し、藩軍を出さなかったため、幕府はやむなく、芸州
藩に代わって、彦根藩・高田藩を出陣させたが、さんざんに
敗北した。

 第二次征長戦が大失敗すると幕府の権威は、もはや地の
底まで失墜し、芸州藩ももはや幕府の時代は終わりを告げ
たと判断し、強硬に大政奉還を幕府に求めるに至る。
 土佐藩が佐幕の立場に立って、幕府に大政奉還を求めた
のに対して、芸州藩は大政奉還を成さざるときは、武威を
持って幕府を従わせるという強硬な姿勢を取り、勤王派と
しての姿勢を鮮明にしている。
 その後、1867年(慶応3年)に薩長同盟が締結されると
芸州藩はすかさずこの同盟に連座して、ここに薩長芸三藩
同盟が成立する。
 土佐藩が大政奉還の建白書を提出するとこれを聞きつけ
た芸州藩はすかさず、建白書をしたためて幕府に提出して
いる。しかし、この抜け駆けを薩長がとがめ、芸州藩を強く
非難し、その後の政局運営に当たって、芸州藩は薩長両藩
から除け者にされてしまう。

 戊辰戦争では2300名余りを出陣させ、官軍の一翼を担う
働きを示し、戦後に1万5000石を恩賞として拝領している。