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宮部 鼎蔵
みやべ ていぞう
1820-1864
享年45歳。

名称:諱は増実、号は田城。


□1850年(嘉永3年)、長州藩の吉田松陰
  が九州遊歴中に出会ったのが宮部で
  あった。
  それ以来、吉田と知人となった宮部は、
  松陰の東北歴訪にも同行し、学友同志
  として親交を深めた松陰が江戸にてアメ
  リカ船に密航しようとした時、宮部は松
  陰の行為に共鳴し、帯刀を交換してその
  勇気を激励した。

□その後、宮部は「攻守和戦の策」を論じて
  建白書を熊本藩に提出したが、受け入
  れてもらえず、失望のあまり、大望成就
  を断念。

  意志を門弟に託そうと考え、以後は門人
  の育成に力を入れるようになる。

□1863年(文久3年)、九州を歴訪していた
  清河八郎の影響を受けて、再び政局の
  表舞台に飛び出す。
  清河の勧めで上洛した宮部は、薩摩藩
  尊攘派の志士・有馬新七と親交を取り、
  摂津地方の海防視察や防禦策を考案す
  るなど、尊攘派志士の先導者として一躍
  、名を馳せるようになる。

□1864年(元治元年)、洛中の尊攘派志士
  たちの重鎮として活躍していた宮部であ
  ったが、同年6月5日、池田屋で集会を開
  いていた宮部たちを新選組が強襲した。

  宮部は主格として逃げることをせず、奮
  闘したが、剣豪揃いの新選組にはかな
  わず、捕らえられる。
  その後、捕縛を恥辱として、自刃して果
  てた。

  京都の尊攘派志士の主格として活躍し
  ていた宮部の死は、全国の尊攘派志士
  たちに大きな衝撃を与えた。
  宮部の死によって、それまで勢いを吹き
  返しつつあった尊攘派は、再び息の根を
  止められたような劣勢をしいられることと
  成った。



 尊攘派として、京都にて暗躍した。京都での兵乱を計画するも、新選組に発覚し、池田屋にて斬り合いの末、壮絶死した。