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毛利 敬親
(もうり たかちか)
名称:慶親(よしちか)
□1837年(天保8年)、敬親が長州
藩主に就く。
敬親が藩主に就いた時、藩財政
は火の車であった。
おまけに天保の大一揆が勃発
し、一揆の勢いは藩全体にまで
広がるなど大規模なものであ
った。
この混乱で長州藩の存亡さえ
危惧されるほど危機的状況に
直面した敬親は、思い切った
人事登用を実施し、この難局
を乗り切ろうとした。
□村田清風(むらたせいふう)ら
を登用し、財政改善、文武興隆
を実施し富国強兵を推進する
天保の改革に順じた。
清風の改革は、藩が借りた多額
の借金を踏み倒す強引な方法
から始まった。
蝋紙(ろうし)の専売制を強化し、
藩財政の立て直しに当てた。
さらに、蘭学を奨励して、海防
の必要を説いて、軍事の洋式化
を急進した。
□清風の改革推進後、長州藩内
では、周布政之助(すふまさの
すけ)の一派と、保守派の坪井
九右衛門(つぼいくえもん)の一
派に分かれ、藩全体を二分す
る派閥抗争を生み出した。
安政期に入り、改革派と保守派
が交互に藩政主権を取り、清風
の改革事業を継続させた。
この間、敬親は藩内の派閥抗争
に一切かかわらなかったため、
他藩のように派閥抗争が起き
なかった。
敬親は”そうせい侯”と陰口を
叩かれるほど藩政を家臣任せ
にしていた。
家臣が「このようにしたのです
が」と藩主・敬親のもとへ報告
すると、敬親は必ず「そうせい」
と述べ、ざる受けをしていた。
しかし、この敬親の”柳に風”の
采配は、優秀な家臣たちの能力
を如何なく発揮させる効力を持
っていた。
もしも、藩主が家臣の行動に細
かい注文をしていると、藩主の
ご機嫌取りが勢力を張り、派閥
抗争が激化する恐れがある。
敬親の中立の立場が長州藩の
派閥争いを激化しなかった最大
要因の一つであったことは間違
いない。
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↑毛利敬親
”よかろう侯”と呼ばれ、寛大な態度で藩政を見守った。
この寛大さが、長州藩士たちを自由に政治参加をさせる空気を生み出し、その結果として、あの長州藩の幕末維新で活躍した原動力を生み出してくれた。
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