大志を持つ藩士たちに自由な行動を許し、数多くの志士
たちに活躍の機会を与えた。
長州藩士の開眼の師。幕末に活躍する数多くの志士を
育て上げた。
村塾の双璧と謳われた逸材。京都で熱心に攘夷運動を
展開し、朝廷、幕府を動かした。
倒幕の流れを決定付けた奇兵隊を組織した。
自由奔放な改革の志を現し、幕末動乱を揺り動かした。
"気の山県"と師・吉田松陰から評された陸軍大臣。
維新後、陸軍大将、元老となり、国家の重鎮となる。
すぐれた軍制統治を実施し、近代軍学を切り開いた。
維新後の日本軍制の創始に功績を残した。
長州藩家老として活躍。京都にて攘夷運動を展開
したが、8・18の政変で失墜。責任を取り自刃した。
長州藩重臣として活躍。積極的な朝廷への働きかけを
行ったが、禁門の変後、失態を問われ、自刃した。
吉田松陰、高杉晋作ら急進派を支持し、後援した。
禁門の変後、藩政の失態を問われ、自刃した。
佐幕派として、革新派と対立。禁門の変後、藩政権力を
握ったが高杉晋作らの挙兵により、失脚した。
伊藤博文とともに渡欧し、語学や兵学などの修得に勤しむ。
第二次長征で活躍し、維新後、政商界の重鎮となる。
渡欧して、西洋学識を考究する。
維新後、政界で大いに活躍し、初代首相を勤めた。
積極的な開国を基本とする公武合体論を主張したが、
薩摩藩の台頭や藩論の転換で孤立する。
積極的な藩政改革を推し進め、革新派として活躍。
一時失脚するが、復帰し、木戸と共に版籍奉還を上奏した。
奇兵隊に入隊し、東国制圧に際して、参謀に昇進した。
会津戦争で強硬な命令を布き、反発をかい斬首された。
武芸に秀でた豪傑として知られた。禁門の変では、
久坂を非難して、強硬突入を敢行し、戦死した。
尊王攘夷を唱え、倒幕運動に参加。維新後は、渡欧し
プロイセンを考究し、日本の農業に貢献した。
維新の三傑の一人。長州藩代表として薩摩藩代表の
西郷隆盛と会談し、薩長同盟を結んだ。
長州藩家老として活躍。革新派を支持し、攘夷運動を
展開したが、禁門の変後、失態を問われ、自刃した。
毛利 敬親 (もうり たかちか)
長州藩主。
吉田 松陰 (よしだ しょういん)
1830-1859 享年30歳。長州藩士。
久坂 玄瑞 (くさか げんずい)
1840-1864 享年25歳。長州藩士。
高杉 晋作 (たかすぎ しんさく)
1839-1867 享年29歳。長州藩士。
山県 有朋 (やまがた ありとも)
1838-1922 享年85歳。長州藩士。
大村 益次郎 (おおむら ますじろう)
1824-1869 享年46歳。長州藩士。
益田 右衛門介 (ますだ うえもんのすけ)
長州藩家老。
国司 信濃 (くにし しなの)
1842-1864 享年23歳。長州藩家老。
周布 政之助 (すふ まさのすけ)
1823-1864 享年42歳。長州藩家老。
椋梨 馨 (むくなし とうた)
長州藩重臣。
井上 馨 (いのうえ かおる)
1835-1915 享年81歳。長州藩士。
伊藤 博文 (いとう ひろぶみ)
1841-1909 享年69歳。長州藩士。
長井 雅楽 (ながい うた)
1819-1863 享年45歳。長州藩家老。
広沢 真臣 (ひろさわ さねおみ)
1833-1871 享年39歳。長州藩重臣。
世良 修蔵 (せら しゅうぞう)
1835-1868 享年34才。長州藩士。
来島 又兵衛 (きじま またべい)
1816-1864 享年49歳。長州藩重臣。
品川 弥二郎 (しながわ やじろう)
1843-1900 享年58歳。長州藩士。
木戸 孝允 (きど たかよし)
1833-1877 享年45歳。長州藩士。
福原 越後 (ふくはら えちご)
長州藩家老。
長州藩 ちょうしゅうはん
≪場所≫ 山口市
長州藩の藩祖は、毛利輝元である。毛利輝元は天下分け目
の決戦である関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務め、東軍の
総大将を務めた徳川家康と敵対した。
しかし、戦う事無く戦局は東軍へ完全に傾き、戦後は領国
安堵を許されるも八カ国もの領有国は二ヶ国にまで減らされ
、不満の残る結果を受けた。
幕末期には、藩の財政は窮乏し、農民による一大反乱が
起き、長州藩は存亡の危機を味わう。その後は、民衆対策
を常に念頭に置きながら藩政改革を進めざるを得なくなった。
この貧窮する長州藩を救ったのが村田清風であった。清風
は、長州藩士全員に藩政改革の妙案を提出させ、提出しない
ものは役職を免ずるという強請を布き、藩政改革の意識を
藩内全体に広げた。
また、民衆たちの協力も頼りとし、長州藩全体で大改革を
成して財政難の窮地を脱することを目指した。清風没後、
清風の改革を引き継いだ周布政之助は、政敵である坪井
九右衛門、椋梨藤太と熾烈な戦いを繰り広げながら、藩政
改革を断行した。
海に面する長州藩は度々、欧米列強の船が海上を通過
することを快く思わず、早くから海防強化を急ぐべきことを
目指していた。そんな中、開眼の師・吉田松陰が長州藩に
登場する。松陰は過激に欧米列強の文化を見習い、国内の
大改革を推し進めるべきことを心に抱き、海外亡命まで実行
するなど無鉄砲ともいえる行動で窮地に立つ日本の未来を
切り開くことに必死となっていた。
その後、松下村塾を開き、多くの門下生に英知を教え、新
時代を切り開くことを教えていく。安政の大獄で松陰が散ると
松陰の門下生が大いに時代を動かしていくことと成った。
高杉晋作・久坂玄瑞・桂小五郎・伊藤博文・山県有朋・井上
馨・吉田稔麿など幾多の志士たちが時代を動かし、日本の
新時代を切り開くことに奔走したことか。
過激尊攘思想を展開して、京都を動かしたのが久坂玄瑞
・桂小五郎たちであった。公卿の中にもこれに同調して、攘夷
親征を唱えるようになり、尊攘思想が一挙に時代の華となっ
た。大和行幸の予定まで確定した時点で、尊攘思想の絶頂期
を迎えるのだが、その後の急転直下とも言える大激変によっ
て、尊攘思想は終息へと向かうのであった。
公武合体を目指す公卿・諸藩・幕府が協力し合い、8・18の
政変を引き起こすと過激尊攘派の志士たちは京都を追放され
たのである。もちろん過激尊攘派の中心的存在であった長州
藩も京都を追われる身となったのである。
七卿落ちを成した尊攘派志士たちは、その後も天誅組の乱
や生野の乱などで巻き返しを図ったが、すべて失敗に終って
いる。業を煮やした長州藩は、京都奪還を武威を持って成す
決意を固め、久坂・来島たちは藩軍を率いて上洛し、幕府軍
とにらみ合う。
この禁門の変にて、長州藩の過激尊攘の夢は、大きく挫折
することとなる。朝敵の汚名まで受け、久坂ら優秀な人材を
京都にて失うという大失態を成して、長州藩は存亡の危機に
直面するようになる。
欧米列強による下関戦争にて、再度の駄目押しをされた
長州藩は、完全に孤立無援となり、藩論は尊攘から急きょ
佐幕恭順へと転化した。
第一次征長にて、完全に屈服させられた長州藩であった
が、その後、高杉晋作と奇兵隊ら民兵組織部隊の活躍に
よって、不死鳥の如く、尊攘思想はよみがえるのであった。
高杉による藩内革命により、改革派が再び藩政を牛耳る
と尊攘思想から開明尊皇の思想に転化させて、富国強兵策
を展開した。
欧米列強の強さに見習い、統一国家を目指し、近代国家
創設を目指すことを長州藩は成したのである。そして、その
思想によって、天皇制の政府機関が構想され、幕府は余分
な機関として排除の対象と成り、ついに倒幕思想が生まれる
のであった。
高杉たちが目指す統一国家による近代国家創設の案件は
、京都で政局を握っていた公武合体による合議制が失敗に
終ったことも手伝って、大いにもてはやされるようになり、つい
に切羽詰った幕府は、第二次征長を成して、自ら失策を犯し
て、幕府の権威を失墜させるに至る。
四境戦争に勝利し、幕府の自滅を見届けた長州藩は、いよ
いよ中央政局へと踊り出て、倒幕思想を実行に移す段階を
得た。かつての雪辱を晴らすべく、政局で発言力を強めた
長州藩は、倒幕思想を展開し、岩倉・三条ら公卿を味方にして
、討幕の勅許を得るのであった。
だが、討幕の勅許と同時に幕府が大政奉還を成して、幕府
はなくなってしまうと長州藩は、大いにはぐらかされてしまい、
討幕の機会を一時、見失ってしまう。しかし、それも薩摩の
西郷隆盛の機転により、江戸にて旧幕府側を怒らせ、戦争の
火種を誘発させることに成功すると一挙に鳥羽・伏見の戦い
へともつれ込み、ついに長州藩は念願の討幕の機会を得るに
至った。
戊辰戦争では、奇兵隊ら長州藩で生まれた民兵組織の各
部隊が大活躍し、近代日本が目指す軍隊の模型を成したの
であった。その後は、薩長藩閥が新政府を牛耳り、日本の近
代化へ邁進するのであった。
入江 九一 (いりえ くいち)
1837-1864 享年28歳。長州藩士。
松下村塾の四天王の一人に列した有志であったが、尊攘思想が窮地に
立たされると禁門の変にて打開を目論む。だが、時運を得ずして死す。
赤根 武人 (あかね たけと)
1838-1866 享年29歳。長州藩士。
松下村塾に学び、他の私塾にも学ぶなど勉学に励む。奇兵隊創設にも
貢献し、下関戦争にて活躍するも後に裏切りの汚名を受け、斬首された。
吉田 稔麿 (よしだ としまろ)
1841-1864 享年24歳。長州藩士。
松下村塾の四天王の一人に列し、長州藩屈指の有志として京都にて
活動する。池田屋事件にて、無念にも新選組に斬られた。
山田 顕義 (やまだ あきよし)
1844-1892 享年49歳。長州藩士。
高杉晋作からその軍才を高く買われ、大村益次郎に次ぐ第二番目の高杉
の後継者と謳われた。維新後はフランス政治に共鳴し、司法大臣を歴任す。
前原 一誠 (まえばら いっせい)
1834-1876 享年43歳。長州藩士。
吉田松陰から智勇、誠実の将と高評を得た有志。
維新後、人情政治を行い新政府に疎んじられると下野し、萩の乱に及ぶ。
鳥尾 小弥太 (とりお こやた)
1847-1905 享年59歳。長州藩士。
奇兵隊士として活躍する。維新後は、陸軍少将にまで昇るが、病気により
辞任。その後、反主流派を形勢して、山県有朋ら藩閥派と対立した。