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山田 顕義
やまだ あきよし
1844-1892
享年49歳。
名称:市之允、号は狂痴、空斎、養浩斎、
不抜、韓峰山人
□長州藩士大組士の長男として誕生。
高杉晋作と同じく中級の藩士の出で
ある。顕義の祖父の兄、つまり大伯
父にあたるのが藩政改革に手腕を
振るった能吏、村田清風だった。
□幼少の顕義は、無口でぼうっとしたと
ころがあり、おまけに鼻水を垂らして
も頓着しない風だった。
そのため、幼少のあだ名が”はなた
れ達磨(だるま)”であった。
□1857年、顕義は高杉晋作と同じく松
下村塾に入塾する。
□明倫館の秀才・富永有隣(とみながゆ
うりん)は、顕義のすぐれた文才を見
抜き、賞賛する。
□1864年1月、顕義は脱藩した高杉晋
作とともに京に赴く。
この頃、顕義は御楯隊(みたて)の
軍監に就く。
□1866年、丙寅丸による奇襲攻撃に際
して、晋作より砲手隊長に任命され、
奇襲作戦成功の立役者となる。
□高杉晋作が亡くなる直前、諸隊の幹
部が見舞った時、今後の諸隊統率
者は誰にすべきか質問した。
すると、晋作は第一に大村益次郎の
名を挙げ、大村の後任を訪ねられる
と第二に「山田市之允(顕義)に頼め」
と述べた。
ではその山田の後任は誰がよろしい
かと問うと「そんな先まで俺が知るも
んか」と答えたという。
そこまで顕義が持つ軍略の才を奇兵
隊総監・高杉晋作は認めていた。
□1867年、晋作没後、顕義は御楯隊と
鴻城隊を合体した
整武隊の総督となる。
□1868年、戊辰戦争の口火となる鳥羽・
伏見の戦いで顕義はその用兵の妙
をいかんなく発揮し、緒戦を勝利に
飾った。
同年7月、顕義は官軍の海軍参謀に
就任。
維新後、顕義は兵制改革に携わった。
□1871年、顕義は岩倉遺外使節団に加
わり、欧米を視察。
帰国後、陸軍少将の立場にいながら
、陸軍卿・山県有朋の徴兵実施を延
期するよう進言。
”富国強兵”の思想から”国民皆兵”
の徴兵制度を早く
実施したい山県に対して、顕義は法
律を整備して教育の拡充優先を説
いた。
□視察したフランスでナポレオンが法制
確立と教育制度改革を実施したこと
に薫化され、顕義自身”われ日本の
ナポレオンたらん”と決意。
顕義は司法と教育の発展拡充に尽
力する武官から文官へと華麗に変身
を遂げる。
□1885年、顕義、司法大臣となる。
□1889年、再び司法大臣となっていた
顕義は、日本法律学校を創立(のち
の日本大学)。
同年12月、商法延期案抗議のため、
辞意を表明。
国学院大学を設立。
□1890年11月、生野銀山視察中に急死。
享年50歳。
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