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伊藤 博文
いとう ひろぶみ
1841-1909
享年69歳。
名は、利助、俊輔。号は春畝。
変名は、花山春輔(はなやましゅんすけ)。
□博文は周防国熊毛郡束荷村の農民・林
十蔵の子として生まれる。
□1854年、父・林十蔵が萩藩士・伊藤直右
衛門の養子となったことから博文も伊藤
姓を名乗る。
□1857年、松下村塾に入る。
師・吉田松陰の博文の人物評は、”才能
は他より劣り、学問はまだまだ幼い。
気質は真っ直ぐであるが華がない”とい
うお世辞にも高い評価とはいえないもの
でしかなかった。
師・松陰から学幼しといわれたのも、身
分の低い博文には勉強する暇がなか
ったからである。
博文の人物像は、処世術に巧みで、こ
こぞという要所以外は、派手に振る舞わ
ない。
さらに周旋の才にすぐれるものがあり、
人と闘争するより妥協のできる限り妥協
する性格であったという。
□1858年10月、博文は来原良蔵の若党と
して、長崎出張に出る。
□1862年12月、博文は御楯組に加盟し、
品川御殿山に建設中の英国公使館を
襲撃。
後日、山尾庸三、国学者・塙次郎を暗
殺する。
□1863年5月、21歳で博文は、井上馨ら
とともに横浜より密航して、渡英。
長州藩からは5000両の旅費と滞在費
が出された。
□1864年3月、下関戦争の報を受け急き
ょ帰国。
下関砲撃の四国艦隊との講和会議に
通訳として出席。
和平交渉に尽力する。高杉晋作に従い
、博文は力士隊を率いて幕府軍と戦う。
□維新後、大久保利通没後の内務卿に
就任。
□1882年、憲法調査のため渡欧。
プロイセン憲法学説を学び、帰国後憲
法立案の中心となる。
□1885年、内閣制度を創設し、初代総理
となり、明治政府を統制する。
□1890年、国会が開設されると貴族院議
長に就任。四度組閣。三度枢密院議
長を務める。
□初代統監となり、韓国併合に着手。
斬新主義を唱えるも、ハンビル駅頭で
朝鮮民族主義者・安重根に狙撃され、
没す。享年69歳。
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↑伊藤俊輔
伊藤博文が若かりし頃、松下村塾時代に”俊輔(しゅんすけ)”と名乗っていた頃の写真。
井上聞多とともにイギリス留学をした際、博文はロンドン在中にミッドフォードという学生と友人となった。
ミットフォードの博文評は、「精悍な感じがするその姿は、まさに隼(はやぶさ)のようである。好奇心旺盛な冒険家で、無類の陽気者である。しかし、一度仕事となれば、精確で機敏に行動し、将来を大望できる人物である。」とすこぶる高評を得ていた。 |
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