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吉田 松陰 1830-1859
(よしだ しょういん)
享年30歳。
長州藩士。
杉常道の子。
名は矩方。幼名は寅次郎。
□1830年(天保元年)、長州藩の下級
武士・杉家の次男として、萩にて
誕生。
□わずか5歳で叔父・吉田賢良(よしだ
かたよし)の養子となりスパルタ英才
教育を受ける。
吉田家は山鹿流軍学(やまがりゅう
ぐんがく)の師範の家柄で、松陰は
生まれながらのその俊才を見込ま
れて、吉田家の後継者として迎え
られた。
□幼くして、”麒麟児(きりんじ)”の誉れ
が高く、わずか10歳にして藩校
・明倫館(めいりんかん)で講義を
行うほど、天性の秀才であった。
11歳にして、藩主の前で『武教全書
(ぶきょうぜんしょ)』の講義を行う
誉れを得ている。
□1850年(嘉永3年)、松陰は長崎に
遊学を果たし、海外の情勢に触れる。
その時、松陰はアヘン戦争について
の情報を得る機会に遭遇し、欧米
列強の豪腕ぶりを知ることになる。
松陰は、欧米列強の強引な対外政策
を日本の驚異として受け止め、以後
海防の急務や欧米の技術や情報を
収拾することが必要不可欠と考える
ようになる。
1851年、松陰は江戸に遊学へと
向かう。そこで、当代随一の西洋通
として知られていた佐久間象山に
師事。
象山から洋学を学び、ますます対外
問題に危機感を深めていった。
□1853年、ペリーが日本に来航すると
松陰は、浦賀にその様子を視察に
行き、日本の植民地化が推進される
のではと危機感を一層強めていった。
□1854年、ペリーが日本に再来すると
松陰は思い切って外密航を画策
する。
下田沖の米艦隊に身を投じたが幕府
の許可なしに渡海しようとしていると
して、アメリカ側はこれを拒否。
失敗に終ってしまう。
その後、陸地に戻った松陰は、幕府
に自首し、藩に送還されて幽閉の身
となる。
□この幽閉の身の上で、松陰は日本の
対外危機を乗り切るには、若い力が
必要と考え、杉家の一室を借りて、
松下村塾を開講し、高杉晋作ら尊攘
派志士を育成した。
□日本の次の時代の担い手たちを育成
しつつ、松陰は盛んに自論を展開。
活発な政治活動ができない歯がゆさ
からか、松陰は子弟たちも危惧する
ほどの過激論者と化した。
狂乱の心境から「天朝も幕府も我が
藩もいらぬ、ただ六尺のこの自分の
体が入用(いりよう)」と述べ、民衆の
決起で日本のかじを取れと主張する
ようになる。
この主張はやがて、”草莽の崛起(
そうもうのくつき)”が必要とする思想
に発展した。
これは、下級武士や農民などの集団
決起が日本を変えるとの期待を込め
た思想であった。
□1858年(安政5年)、松陰は幕府老中・
間部詮勝(まなべあきかつ)を暗殺
して、公卿の大原重徳(おおはらしげ
とみ)を長州藩主に迎え入れて、対外
問題を推進しようとする強引な計画を
立てた。
これには子弟の高杉晋作や久坂玄瑞
も慌てて、思いとどまるよう、説得した
が松陰は頑強に意志貫徹を主張。
「僕は忠義をするともり、君たちは功
業をなすつもりか」と述べ、松陰は
かえって、みなに奮起を促す始末。
門弟たちの心配どおり、暗殺を計画
したとして幕府に捕らえられ、江戸へ
と松陰は護送されてしまう。
□1860年、安政の大獄によって、刑死。
□著書に<講孟剳記(こうもうとうき)>
<孟子>などがある。
世界的な視点に立って実践的に解
釈している。
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↑吉田松陰
松下村塾を開いていた頃、松陰は『飛耳長目(ひじちょうもく)』という新聞を発行していた。
発行人・編集長・執筆者の一人三役をこなし、最新の政治情報や西洋情報などを載せた。
江戸・京都・長崎など各地の動きを松陰の解説付きで詳細に記載されており、塾生の間ではめっぽう人気があったという。
新聞名の『飛耳長目』は、耳を四方に飛ばし、目を長くして見聞を広める努力を塾生たちが近い将来、行うべきとの期待を込めて付けられた。
松陰は最新情報を素早く収集するために飛脚を利用することを提案し、飛脚にかかる費用を藩がまかなうべきだと藩に上奏している。
松陰は激動の時代に適切な対応を取る為には、新鮮な情報が必要不可欠であると痛感していたのである。
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