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久坂 玄瑞 1840-1864
(くさか げんずい)
享年25歳。
長州藩士。
通称、義助、通武(みちたけ)。
□1840年、長州萩藩医・久坂良迪(りょ
うてき)の子として生まれる。
□1846年、玄瑞7歳の時、萩城下平安
古(ひやこ)の吉松淳蔵の家塾にお
いて学習する。
この時、8歳になる高杉晋作も玄瑞と
同じくこの家塾にて机を並べて勉強
している。
□1854年、玄瑞15歳の時、すぐれた医
者で蘭学者でもあった20歳年長の兄
・玄機が没する。
ついで父を失い玄瑞は久坂家の家
督を継ぐ。
□1856年5月、玄瑞17歳にして九州へ
遊学する。
この頃より吉田松陰と文通をする。
吉田松陰に自分の考えを書にしたた
め伝えると意に反して、松陰から論
旨が粗雑で浮泛(ふはん・うわっ調
子)な空論と戒める返書があった。
□玄瑞は返書に反発したが帰藩後、松
陰のもとを訪れ、1857年6月から松
下村塾に学ぶようになる。
のちに松下村塾の双璧と呼ばれ、そ
の逸材振りを現した。
松陰の玄瑞評価は「防長第一流の
人物である。
なぜなら天下の英才だからだ」とすこ
ぶる高いものだった。
同年12月、玄瑞は吉田松陰の妹・文
と結婚する。
□1858年以降、玄瑞は京都・江戸に遊
学する。
京都・江戸にて諸藩志士と交遊し、
尊攘運動に参画した。
□1860年、玄瑞は江戸に入り、幕府蕃
書調所にて英学を学ぶ。
□1861年、玄瑞は和宮の降嫁を阻止し
ようとしたが失敗に終る。
□1862年1月、長井雅楽が示した「航海
遠略策」が長州藩の藩方針となった
ことから玄瑞は憤慨し脱藩に至る。
玄瑞は「航海遠略策」が公武合体派
の流れを持っていたため、幕府の利
益にはなっても、日本の為にはなら
ないと判断した。
同年10月、攘夷督促の勅使とともに
江戸へ赴く。
同年11月、晋作らと攘夷血盟書を作
り、横浜外国商館襲撃を企てる。
同年12月、玄瑞は晋作らとともに英
国公使館を焼き討ちする。
□1863年5月、下関にて光明寺党を結
成。下関の外国艦船砲撃事件に加
わる。
玄瑞は京都に入り、朝廷に働きかけ
、攘夷親征の朝議を推進させる。
同年8月18日、会津・薩摩藩のクー
デターにより、政変。追放された公家
とともに京都に潜伏するも事態打開
にならず。
□1864年3月、帰藩し、入京の実力行使
を抑えようとする。
同年6月、軍議が進発論に決すると
、藩兵を率いて京都に向かう。
入京拒否にあうが自重論を唱えて、
情勢を見守る。
しかし、藩の強硬派に押されて禁門
の変を勃発させる。
会津、桑名、薩摩藩兵と激しい戦い
を演ずる。
朝廷奪回のため、関白・鷹司政通の
屋敷に向かい天皇に上奏するよう求
めるが拒否される。
敗戦もちかいことを悟り、負傷の体
にて自刃する。
享年25歳。
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先祖伝来の軍学を学び、若き軍学者として、長州の地に立つ。
来島ら強硬派を押しとどめることができず、結果的に突発的兵乱に翻弄され、京都の地にて、無念の自刃をした。
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