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高杉 晋作 1839-1867
(たかすぎ しんさく)
享年29歳。
萩藩士。
名は、暢夫(ちょうふ)、春風。号は東行。
変名は谷梅之助、谷梅助、
備後屋助一郎。
□1839年8月20日、萩藩士・高杉小忠太
の長男として誕生。高杉家は大組士・
200石の知行を持つ。
□晋作は10歳の時、天然痘を患ったた
め、虚弱な体質であまり目立たない
幼少時代を過ごした。
剣術に励んだ晋作は、藩の指南役で
柳生新陰流の内藤作兵衛に師事して
七年で免許皆伝を得ている。
□1857年9月、晋作は松下村塾に入り、
久坂玄瑞とともに吉田松陰門下の双
璧といわれた。
松陰は晋作の才能を高く評価し、村
塾内で何かを決する場合、しばしば晋
作の意見を引用したとある。
□1858年5月、村塾を巣立った晋作は、
江戸に遊学する。
□1862年、晋作は幕府の使節船・千歳
丸にて上海に渡航し、中国の現状を
視察する。
長州藩の代表として上海に渡った晋
作だったが、上海で見たものは、主権
は清国にあるというものの、実情はイ
ギリス、フランスの植民地という悲惨
な情景であった。
□帰国後、尊王攘夷運動を展開する。
□1863年、外国船の下関砲撃に際し、諸
外国からの報復攻撃で圧倒的な武力
差を見せ付けられた晋作は、新たに
洋式軍備を取り入れ、奇兵隊を編制
する。
下関事件では、連合艦隊の諸外国と
の和議に際して、全権を持たされ交
渉にあたる。諸外国からの賠償金、
土地の租借など要求の一切を受けな
いという強気の姿勢で臨み、不利の
ない講和成立に成功。
□晋作は吉田松陰が著した『西洋歩兵
論』の「孫子は”兵は正を以て合い奇
を以て勝つ”と言っている。西洋人は
よく訓練された歩兵を軍の骨子とし、
正兵としている。
これに対抗するに足る正兵を持つこと
も大切だが、外国軍との戦いには、わ
が国固有の短兵接戦を以て敵にあた
る精悍剛毅の者を集めた奇兵が必要
である」と説いているところから奇兵
隊創設を発している。
□廻船問屋・白石正一郎邸を本陣として
奇兵隊は結成された。日増しに隊は
増員され、邸では狭くなり、海峡側の
阿弥陀寺に本営を移した。
攘夷戦に参加するために諸国の浪士
、陪臣、農民のほか萩から出兵してい
た藩正規軍の武士たちも奇兵隊に入
隊した。
奇兵隊の収容人数には制限があるた
め、別に民兵隊組織が続々と結成さ
れ、荻野隊、八幡隊、集義隊、義勇隊
、遊撃隊など多数がある。
隊員人数は30〜300人程度で、幕
府との決戦となる第二次長州征伐の
頃には民兵部隊の数は200を超えた。
1868年以降の戊辰戦争で、これら奇
兵隊らは官軍最強部隊として活躍し
ていくこととなる。
□藩軍で別働隊の役目を持つ奇兵隊に
対し、藩の正規軍は撰鋒隊(せんぽう
たい)があった。下関事件で藩正規軍
として諸外国と戦った撰鋒隊は、みじ
めな敗北をした経緯から、期待を集め
る奇兵隊と仲が悪かった。
この険悪状況が表面化したのが藩主
・毛利定広が下関砲台を巡覧した時
である。
奇兵隊の陣営を先に視察した藩主は
、思ったよりも時間がかかり、日暮れ
となったため、撰鋒隊の陣営は、後日
改めて行うということになり、視察中
止がなされた。
正規部隊が後回しとなったことを憤激
した撰鋒隊士らは、奇兵隊に籍を置く
馬関総奉行の御使番・宮城彦輔が画
策して撰鋒隊視察を中止させたに違
いないと決め付け、彦輔の宿舎を襲
撃しようと謀った。
しかし、これを憂慮した一人の撰鋒隊
士が彦輔に密告。彦輔から事情を聞
いた晋作ら奇兵隊幹部はこれに激
怒。
晋作は奇兵隊士らを連れて、逆に撰
鋒隊の宿舎に押し入る。奇兵隊の異
常なまでの殺気に慌てふためいた撰
鋒隊士らは、臆して逃げ惑った。
このとき、逃げ遅れた撰鋒隊士一人
が奇兵隊士らに惨殺された。これを”
教法寺事件”という。藩はこの事件を
重く見て、宮城彦輔を切腹。奇兵隊
総督の高杉晋作を更迭。撰鋒隊を小
郡(こごおり)に移陣させる処置をと
った。
奇兵隊総督という地位を失った晋作
だったが、その後すぐに政務員に昇
進するなど厚遇を受けている。
晋作の逸材は、もはや藩政改革にと
って必要不可欠な存在となっていた
ためだろう。
□1864年、晋作は来島又兵衛の強行姿
勢を諌めに会いに行くと口論となり、
又兵衛の臆病者呼ばわりに激怒した
晋作は藩を脱藩。
そのまま、京都へ赴くという狂挙に
出た。
しかし、京都に潜伏していた桂小五郎
に説得され、晋作は帰藩した。脱藩は
死罪順当であったが、寛大にも晋作
は萩の野山獄に投獄されるだけにと
どまった。
晋作が投獄中に8・18政変が起き、
晋作の盟友・久坂玄瑞、入江九一は
京都で攘夷の嵐の中で散った。
同年12月15日、九州筑前に亡命して
いた晋作は武力による藩の「俗論派」
打倒を決する。周囲の反対を押し切り
、遊撃隊と力士隊の合わせて80余名
を率いて挙兵の途に及ぶ。
少人数でも気勢が強く、瞬く間に下関
を占領した。
奇兵隊本隊では晋作のこの行動に反
対者は離反し、実権は山県有朋が握
った。
□1865年1月、晋作の挙兵に奇兵隊ら諸
隊も参加し、藩主権を握っている「俗
論派」打倒に立ち上がる。
内戦10日で鎮圧軍を撃破し、ほぼ晋
作の挙兵戦は成功となる。
晋作は勝ちに乗じて、このまま萩城攻
略を計画するが山県有朋がいったん
兵を山口まで退いて、藩の出方を見
るという意見におされ、山口で形勢
を伺うこととなる。
藩側は「鎮静会議員」という中立派を
使者に立てて、晋作ら挙兵側と交渉。
こうして「俗論派」は藩主権から除か
れ、代わりに「正義派」が復権した。
藩方針は討幕へと固まっていくことと
なる。
□1866年1月22日、薩長同盟の密約が
成立。
薩摩藩代表・西郷隆盛と長州藩代表・
桂小五郎の間で土佐藩の坂本龍馬を
仲介して、禁門の変以来、犬猿の
仲だった薩長両藩は、幕末の盟友と
なった。
晋作は九州の諸藩と連合して幕府に
対抗することを構想した。
また、晋作は桂小五郎らと共に薩摩
藩との交易によって、利益を上げ、藩
営工場の設立を考え、討幕の為の
長期的な戦略も視野に入れた構想を
練った。
□その後、幕府軍による第二次長州征
伐が敢行されると晋作は奇兵隊と薩
長同盟によって、薩摩藩から大量
の最新西洋兵器を導入し、大軍を擁
する幕府軍を各方面で各個撃破した。
これによって、倒幕への気運が一気に
高まり、天皇を中心とする新たな近代日
本の枠組みが構想されるようになった。
□晋作の目覚しい指揮により、強敵・幕府
軍を蹴散らしたことで、時代の流れは一
挙に加速することとなる。
しかし、幕府軍との熾烈な戦闘の最中、
晋作はすでに結核に犯されていた。
回復することなく、明治の世を見る事無
く、病没した。
享年29歳。
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↑高杉晋作
幕末一、胆の座っていた晋作は、子供の頃からその片鱗を見せている。
当時の武家の子供たちは大抵、肝試しが敢行されており、長州藩でも萩城の首切り場に夜中一人で見てくるという恒例の肝試しがあった。
皆、武家の子供たちはこの肝試しを怖がったが、晋作だけは進んで肝試しに出かけ、さらし首を見て、平然として帰ってきたという。
子供の頃から何事にも動じない図太い神経を持っていたらしい。
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