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世良 修蔵
せら しゅうぞう
長州藩士。
□周防国大島郡椋野(むくの)村の庄屋
の出。長州藩家老・浦靱負(うらゆきえ)
の家臣であった。
□世良は、奇兵隊の三代目総督となった
赤根武人(あかねたけと)と同郷だった
縁を頼り、奇兵隊に入隊。
四境戦争では、第二奇兵隊軍監に出世
して活躍した。
□戊辰戦争に際して、世良は自分を引き立
ててくれた赤根が、佐幕派に内応したと
の嫌疑をかけられ、逃亡すると、奇兵隊
幹部から一転それに連座して助命はさ
れたものの謹慎処分となってしまった。
□戊辰戦争がますます熾烈になると世良は
、謹慎を解かれ、官軍幹部として抜擢さ
れた。
世良は、汚名挽回とばかりに功名心に
はやり、奮起した。
□1868年(慶応4年)3月18日、左大臣・九
条道孝を総督とする奥羽鎮撫軍が松島
に上陸。
修蔵は薩摩の大山格之助とともに下参
謀の職にあり、事実上、奥羽鎮撫軍の
実権を握っていた。
しかし、この官軍派遣の経緯は複雑であ
った。はじめ、総督に沢為量(さわため
かず)、副総督に醍醐忠敬(だいごただ
ゆき)、参謀に薩摩の黒田了介(のちに
清隆)、長州の品川弥二郎が任命さ
れた。
しかし、会津藩の処分をめぐり、東征大
総督から「会津に於いては実に死を以て
謝するの外これなく」との指示が出され
た為、両公卿は尻込みし、穏健派の黒
田らも参謀を辞した。
このため、改めて九条を総督に、両公卿
をそれぞれ副総督と参謀に格下げし、新
たに大山、世良の両名が下参謀に任ぜ
られたのである。
総督府は仙台藩に4月7日を期して、会
津征討を命じたが、数多くの仙台藩士が
会津藩に同情を寄せていたため、藩論
不統一と準備不足を理由になかなか軍
隊派遣を行わないでいた。
不明瞭な態度を取る仙台藩に業を煮や
した世良は強硬に督促して、仙台藩の
重い腰を上げさせた。
仙台藩主・伊達慶邦は1万4000の大軍
を率いて、南下。土湯口、石筵(いしむし
ろ)口など四口に布陣して会津藩兵と一
応、対峙し干戈(かんか)を交えたが、仙
台藩兵の多くが薩長こそ君側の奸と思っ
ており、会津藩に同情的であったため、
本気を出して戦おうとはしなかった。
この仙台藩兵の戦意低迷に激昂した世
良は、「腰抜けども」と罵り、仙台藩士と
一触即発のにらみ合いとなった。
汚名挽回とばかりに軍功を立てることに
焦る世良は、総督の命を軽んずる仙台
藩に対し、苛酷な仕打ちで対応した。
”竹に雀を袋に入れて 後でおいらのも
のにする”奥羽鎮撫総督麾下の薩長藩
兵は酔った勢いでこのような仙台藩をけ
なす詩を詠ったという。
「竹に雀」は仙台藩伊達氏の家紋で
ある。
薩長を主軸とする官軍では、仙台藩を賤
しき者としてさげすみ、仙台藩は武士の
メンツを保つべく憤慨し、両者の対立は
日増しに増大した。
このような情勢の中、仙台藩は米沢藩と
謀って、会津救解(謝罪嘆願)を策し、会
津藩が降服嘆願書を官軍に差し出し、こ
れに仙台、米沢両藩主名入りの嘆願書
も添えられた。
これら仙台藩らの必死の謝罪行為に対
して、世良は一蹴。あくまでも「会津死謝
」をもって、戦争終結を目指した。
世良は、「会津藩は朝敵天地に入るべ
からざるの罪人である」として鎮撫総督
命令を発し、会津征討に執念を燃や
した。
この世良の傲慢な態度に辛抱強く会津
救命に奔走していた仙台藩は、我慢の
限界を超えた。
藩内に「断固世良を誅殺すべし」の声が
満ち溢れた。
世良への批判の声が高まる中、戦況好
転の兆しが見られないことから世良は、
江戸へ上ることを思い立ち、白河から白
石に向かう途中、福島城下の常宿であ
る妓楼・金沢屋に立ち寄った。
宴会を催して、酒に酔った世良は、無防
備のまま寝入ると深夜二時頃、姉歯武
之進ら仙台藩士8名と福島藩士13名から
なる刺客が世良を襲った。
とっさに世良は手元にあった短銃を刺客
に発したが運悪く2発とも不発に終り、あ
っさりと捕縛されてしまった。
午前六時頃、阿武隈川の河原に引き出
された世良は斬奸状(ざんかんじょう)を
読み上げられた上、斬首された。
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遅咲きながら、第二奇兵隊軍監に就き、以後の戦局で活躍した。
戊辰戦争では、参謀へと大出世を果たし、強硬な東北諸藩の指導を推し進めたが、それが結果として命取りとなってしまった。東北諸藩の思わぬ反発を受け、無念の強襲を受け、河原にて斬首された。 |
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