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大村 益次郎 1824-1869
(おおむら ますじろう)
長州藩士。
長州藩医の子。
旧名は、村田蔵六、藤原永敏。
□1824年、益次郎は周防の鋳銭司村(
すぜんじむら)で生まれた。
長州藩出身とは成っているが実際は
、長州とは隣境の国・防州(ぼうしゅう)
と呼ばれた小藩の出である。
山口県が長州と防州の二区から成る
ようにこの二つは一心同体のようなも
ので、高杉晋作らも、「防長二州」と呼
んでいた。
□大阪で緒方洪庵の門下となり、適塾(
てきじゅく)で蘭学と医学を学ぶ。
□宇和島藩・伊達宗城の推挙で幕府の
蕃所調所に仕えた。
□長州藩にその才能を認められ、兵制改
革に力量を発揮する。
□第二次長州征伐、戊辰戦争で軍事指導
に敏腕を振るう。
□明治政府の兵部大輔となり、明治軍制
を創設。近代兵制の樹立に尽力する。
□近代兵制に反対する士族によって、襲
撃されその二ヶ月後に没す。
□益次郎の構想は山県有朋らに受け継
がれていった。
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↑大村益次郎
貧乏医者から大身して日本軍制の父となる。
適塾出身の益次郎は、”理屈の学問なんぞ役立たず”として塾を中退。
鋳銭司村で診療所を開いたが繁盛せず。
長州藩から長州軍正兵部隊の軍制を担当してほしいとの要請を受ける。
英仏型の軍制を日本軍に取り入れ、軍事病院や兵学校を創設した。
洋学に通じた益次郎であったが、生涯、洋服は着ず。和服を通し、軍服も和服軍服を着た。 |
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