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山県 有朋
やまがた ありとも
1838-1922
享年85歳。

名は、小助、小輔、狂介。

□有朋は、長州藩足軽以下の最下層の仲
  間(ちゅうげん)の家に生まれる。

□有朋は、明倫館の手子役など最下級の
  職に就いた。手子は、給仕または小使
  いの仕事を勤めた。

□少年時代の有朋は、槍術者(そうじゅつし
  ゃ)として身を立てて、江戸に道場を構え
  ようとする夢を持っていた。
  そのため、若き日の有朋は、寸暇を惜し
  んで稽古槍を手にして、大木を相手に槍
  術を独修した。
  のちには師について槍術を学んだ。

□1858年十月、21歳の有朋は松下村塾に
  入塾する。
  それまでに有朋は、目付横目役という下
  級武士の警察官のような職務を務め、
  藩命により上洛し、尊王攘夷の嵐を受け
  て帰藩した。

□松下村塾で”松門四天王”の一人だった、
  吉田稔麿が有朋の前で絵を描いて見せ
  たことがある。
  妙な絵で、[鼻輪を通さぬ離れ牛、坊主
  頭で裃(かみしも)を着ている人物。木剣
  と棒の四点が描かれている]

  この絵を見た有朋は、絵の真意を稔麿
  に訪ねると稔麿は「この離れ牛は高杉晋
  作である。これはなかなか駕御出来な
  い人物である。坊主頭で裃を着て座って
  いる人物は久坂玄瑞である。これは廟
  堂(びょうどう)に座らせておくと堂々たる
  政治家となる。
  次に木剣は入江九一である。入江は偉
  いが、まだ本当の刀にはなっていない。
  木剣程度である。最後の棒は有朋お前
  である。」と答えた。
  のちに陸軍の大御所となる有朋は、当
  時、”棒”程度の評価しか周囲から得ら
  れていなかったようである。

  しかし、師・吉田松陰は、有朋を”気の山
  県”と評して、塾内一の旺盛な気力の持
  ち主とその有能さを認めている。

□1863年1月、有朋は下級武士から上級武
  士へと昇進。同年12月、有朋は奇兵隊
  の軍監となる。
  奇兵隊総監の高杉晋作もまた、有朋の
  旺盛な気力が部隊全体を統括するのに
  適すると判断し、有朋を大役に抜擢
  した。

□1868年4月、有朋は官軍北陸部隊を率い
  、討幕戦を行う。
  この時、有朋は北陸道鎮撫総督兼会津
  征討総督の参謀という役職を得て、事実
  上、北陸方面の官軍指揮官となる。同職
  にはもう一人、薩摩藩士・黒田了介(の
  ちの黒田清隆)が就いた。

□有朋の率いる官軍は、長岡藩の長岡城
  攻略に取り掛かる。敵方には長岡藩筆
  頭家老・河井継之助という軍備や政局に
  卓越した才人がいる。
  攻略は容易ではなかったが奇襲作戦に
  より、ようやく有朋の手に長岡城は落ち
  た。

  しかし、越後口での戦闘はますます激化
  し、戦場拡大という最悪な状況となる。
  戦闘混乱の中、長岡城は再び官軍から
  長岡藩軍により奪還されるに至る。
  官軍の軍議では援軍を待ってから再攻
  略を実施すべきとする意見が大半を占
  めたが、有朋は断固としてすぐさま長岡
  城を再征服すべきと述べる。
  有朋の意見が通り、激しい激戦の末、官
  軍は再び長岡城を陥落させた。これを”
  長岡の二番破れ”という。

  この長岡城攻略の武勲により、有朋は
  のちに明治政府で不動の地位を築き、
  陸軍設立の功労者に至るのである。

□1869年6月、有朋は渡欧して、陸軍設立
  の為の視察を行う。

□1877年10月、有朋は西南戦争に際して、
  征討参軍となる。

□1889年12月、第一次山県内閣を組織し、
  内相を兼務。

□1890年6月、有朋、陸軍大将となる。

□1898年11月、第二次山県内閣を組織
  する。

□1904年1月、有友、対露開戦を決定
  する。

□1914年8月、対独開戦問題で元老会議
  を開く。

□1922年2月、死去。享年85歳。




 ”ただの棒きれ”とまで酷評された青年期を経て、戊辰戦争では、長州藩軍を率いるまでに成長した。
 維新後は、着実に軍部にて実績を上げ、ついには総理大臣を勤め上げ、末永く元老院にて日本政策にたずさわった。