紀州藩 (きしゅうはん)※和歌山藩
≪場所≫ 和歌山市


幕藩体制において、親藩最高位にある御三家の一つ。
尾張藩に次ぐ地位にて、将軍を輩出したことから、佐幕
派の中枢として、幕末に活躍した。
13代目紀州藩主・徳川慶福(とくがわよしとみ)が井伊
大老に将軍へ推挙され、14代将軍・徳川家茂となる。
将軍の出身藩として、幕政への発言権を強めた紀州
藩ではあったが、常に尾張藩の格下に置かれ、不満
をかこった。

慶福の後、支藩の西条藩から紀州藩主に迎えられた
徳川茂承(とくがわもちつぐ)は、幕政への協力を成した
が、幕政への影響力はほとんどなかった。
第一次長州征討では、征討総督に就任したが、たった
二日で尾張藩の徳川慶勝に交代させられた。
茂承はこの不名誉を挽回しようと幕府軍先鋒の任を
承りたいと幕府に要請したが、幕府に聞き入れてもら
えず、幕府への不満を残した。

ついで第二次征長の際には、先鋒総督に徳川慶勝の
弟が命ぜられたが、これを当人が辞退したため、茂承
に役目がまわってきた。
しかし、長州藩に有利との判断がついているため、茂承
は同じく辞退しようとしたが、幕府はこれを許さず、強引
に任務に就かせ、その上、軍資金として10万両を出す
よう紀州藩に要請してきた。

この幕府の無謀横暴さに不満を募らせた茂承は、合戦
にてうっぷん晴らしをしようとしたが、総督とは名ばかり
で、実務は全て幕府から派遣されてきた老中が取り仕
切り、茂承の出番は一切なかった。
これに憤慨した、茂承は総督の任務を辞任する意向を
幕府に出し、紀州藩兵を広島に集めて戦闘不参加を
決め込んだ。茂承にしてみれば、幕府に対しての精一
杯の抵抗であった。

将軍・家茂が大坂城で病没すると、第二次征長はうや
むやとなり、次期将軍職に茂承の名が挙がった。
一橋慶喜の推挙という形であったが、これはいわば
たえまえでしかなく、実際は周囲の幕臣がこぞって、
慶喜の将軍就任を懇願することで、幕臣の意志を統合
しようという偽りの政治工作であった。
茂承もそれを察知して、将軍職を辞退し、慶喜を引き立
てる立役者に徹した。

こうした、幕府のための汚れ役に使われた紀州藩は、
戊辰戦争がはじまるころには、佐幕への熱はすっかり
冷めあがり、勤王への忠誠で藩論は統合されていく。
幕府の政治がいかに譜代の大名に負担をかけすぎた
無理な政策であったかを物語る紀州藩の行動であった。




坂本龍馬の下で活躍。維新後は、政府の要職を歴任し、ついには
不平等条約の改正を成し遂げた。

熱心な佐幕派として、その筆頭として躍進しようと目指したが、幕府に
いつもはぐらかされ、ついには幕府より心が離れ、勤王の姿勢に転化した。

徳川 茂承 (とくがわ もちつぐ)
紀州藩主。




陸奥 宗光 (むつ むねみつ)
1844-1897 享年54歳。紀州藩士。