徳川 茂承
とくがわ もちつぐ

身分:紀州藩主。

□将軍継嗣問題で、南紀派が推す徳川慶
  福(とくがわよしとみ)が十四代将軍と
  なると、空席となった紀州藩主の座には
  、紀州藩の支藩である西条藩から徳川
  茂承が指名された。
  こうして、茂承が十四代紀州藩主となった
  のであった。

□第一次長州征討の際、紀州藩主である
  茂承が幕府軍総督に任ぜられたが、その
  後、たった二日で尾張藩主・徳川慶勝に
  代えられてしまった。

  茂承は、面目丸つぶれとなり、せめて名
  誉ある部隊の先鋒を務めて、誉れの回
  復を図ろうとしたが、幕府はこれを認め
  なかった。
  こうして、幕府に出鼻をくじかれ、赤恥を
  かかされたことを茂承は、幕府に対して、
  不満を持つようになった。

□第二次長州征討の際には、先鋒総督に
  慶勝の弟が命ぜられたが、これを彼は
  辞退したため、代わりとして茂承にその
  役目がまわってきた。
  しかし、第一次長州征討とは違って、情勢
  は非常に幕府に不利で、諸藩も戦争に
  乗り気ではないため、茂承はこれを再三
  にわたって、辞退したが、幕府はこれを
  許さず、総督に無理矢理、任命した。

  嫌がる茂承をよそ目に幕府は、さらに戦
  争の軍資金を提供するよう紀州藩に要請
  し、10万両という莫大な軍資金を肩代わ
  りさせられる破目と成った。

  現将軍が紀州藩出身ということもあって、
  徹底した佐幕の姿勢を貫かねばならない
  弱い立場を幕府がうまく利用した形となっ
  ていたが、茂承は我慢した。

  しかし、いざ長州藩を包囲してみると、
  その戦闘指揮には幕府から派遣されて
  きた老中が行い、総督の職務に就いて
  いた茂承には、何ら権限が与えられな
  かった。

  こうした幕府の度重なる横暴にたまりか
  ねた茂承は、総督職の辞表を提出し、
  自らは紀州藩軍を率いて広島に一時、
  撤退をした。
  茂承にとっては、佐幕派の筆頭株である
  立場からこうした行為が精一杯の幕府に
  対する抗議であった。

□第二次長州征討が泥沼化していた頃に
  大坂城にいた将軍・家茂が病没してしま
  った。この時、将軍後見職に就いていた
  一橋慶喜から将軍職に就くようにと茂承
  は勧められている。
  が、これは慶喜の世評判断のためのパ
  フォーマンスで幕臣たちがこぞって慶喜
  が将軍職を継いでくれるよう嘆願させる
  ための契機付けの行為であった。

  そのことを理解していた茂承は、将軍候
  補に自分の名が上がったことを喜ぶこと
  もなく、淡々と将軍職辞退を行った。
  言わば、茂承は常に幕府の建前や演出
  に利用される存在でしかなかったので
  あった。

□幕府のために”あて馬”の損な役回りを
  演じた茂承であったが、幕末の改革ブー
  ムに乗り遅れる事無く、藩政改革に着手
  している。
  茂承が藩政改革のために登用した人物
  は、津田出(つだいずる)である。
  津田は農兵組織を築き、その総裁となり
  、富国強兵策を藩政方針の中枢に据え
  た。
  しかし、紀州藩の頑強な保守派たちに
  政策を阻まれ、蟄居閉門を命ぜられて
  しまう。
  津田が政界に再登場するのは、維新後
  の新政府時代に入ってからである。
  新政府は津田の才覚を認め、大蔵少輔
  、陸軍少将、元老院議官などを歴任し、
  新時代の開拓に活躍している。

  津田のような逸材を藩政改革に活用し切
  れなかったところに佐幕派筆頭の紀州藩
  の立場をよく表している。
  津田と同じように紀州藩勘定奉行の職に
  あった伊達宗広は、藩の財政改善に成功
  しながら、藩内の保守派にねたまれて、
  藩政を追われてしまった。
  ここでも、紀州藩は幕藩体制に根強い保
  守派の権勢のために革新を成すことが
  できなかったのである。

  こうした藩政改革を推し進めながらも、
  佐幕派としての立場上、幕藩体制の旧体
  制の保持がいつも付きまとい、思うような
  藩政改革を成せなかった。
  茂承の佐幕に対する情熱は、二度に渡る
  長州征伐の際に冷たく幕府に扱われた
  ことで、すっかりと冷め上がってしまった。
  そのため、戊辰戦争で幕府の危機が直
  面した時には、その支援をする活躍を
  見せられなかった。