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近藤 勇
こんどう いさみ
名は宮川勝太(みやがわかつた)。
後、勝五郎、島崎勝太、島崎勇、
大久保剛、大和と数度ほど名を変え、
大和の名で斬首されている。
□宮川家の三男・勝太として生まれる。
父が不在だったある日、宮川家に
深夜、白刃を引っさげた盗賊が忍
び込んだ。
勝太の兄二人はすぐに刀を取り身
構えたが、勝太はこれを制し、「いま
出て行けば賊も気が張っているのだ
から難儀する賊が出て行く隙を突く
べきだ」と意見した。
この献策により、金品を抱えて家を
出て行こうとする賊へ飛び掛ったこ
とで賊は戦わずして逃げ出してい
ったという逸話がある。
この話を聞いた天然理心流三代目・
近藤周助は農民の子にしておくには
惜しいとして勝太を近藤家へ養子とし
ている。時に勝太十六歳であった。
□1863年、勇は、清河八郎らの浪士組
募集に応じ、郷里を長兄・宮川音五
郎に任せ、上洛を果たす。
□近藤勇は、局長を勤め、隊士の統率
を図った。
ちなみに近藤局長の月給は50両と
高給で、隊士は10両であったという。
当時は、大都市で月に一両もあれば
、一家五人が暮らせるほどで、50両と
は破格の待遇であったことが伺える。
地方武士では年収が3両であったとも
言われているだけに近藤ら新選組隊
士は大出世したといえる。
□池田屋事件で勇は沖田と共に二人で
力戦。
二時間以上の白兵戦に勝利。一躍、
新選組の名を世間に知らしめた。
□その後、信任していた伊東甲子太郎
や試衛館以来の同僚・藤堂平助を分
派活動の隊規違反により、涙をのん
で、天誅粛正を断行した。
□元新選組隊士・伊東甲子太郎を天誅
したものの、その同志に狙撃され、
不覚にも負傷を負った勇は鳥羽伏見
の戦いに出れず歯がゆい思いをした。
江戸に敗走後、甲陽鎮撫隊の隊長に
就任し、若年寄格となった勇は、大久
保剛(おおくぼつよし)と改名する。
勝沼の戦いでは官軍にぐうの音もで
ないほどの大敗を帰し、戦意を喪失。
電光石火の素早い軍略を見せる官軍
の前に、打ち出す戦術を見出せず包
囲された勇は、切腹を押しとどめられ
、官軍に投降するも罪人扱いにされ、
斬首という悲運の最期をむかえる。
封建時代の死闘を繰り広げてきた勇
にとって、近代戦争の凄まじさと不条
理さにはついていけなかったことは
事実であろう。
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農家生まれなれど、大望はサムライより篤かった。
剣豪として、京都の平和を守った頼れるラストサムライ。
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