新選組を組織し、その隊長を務めた。
剣客が暗躍した京都の町に治安をもたらした。

新選組の中核を成し、副隊長として活躍。”鬼の歳三”とし
て厳格な規律を通した。五稜郭にて戦死す。

新選組随一を誇った剣豪。相手を一飲みにする凄まじい
気合術をもって、名だたる剣客を斬り捨てた。

近藤とともに新選組を組織し、その頭目を務めた。
乱行が絶えず、隊律を乱した罪で誅殺された。

数少ない新選組の生き残りとして維新後も生きた。
池田屋事件では、近藤、沖田らとともに活躍した。

温厚な気質にして凄腕の剣豪。初期の新選組で二番手の
地位を確立したが、その後、気が病んで失踪した。

北辰一刀流の使い手。後期の新選組に入隊したが、
近藤勇との間に確執が生じた。土方の手にかかり死す。

近藤 勇 (こんどう いさみ)
1834-1868 享年35歳。新選組局長。

土方 歳三 (ひじかた としぞう)
1835-1869 享年35歳。

沖田 総司 (おきた そうし)
1843-1868 享年26歳。

芹沢 鴨 (せりざわ かも)
1830-1863 享年34歳。

永倉 新八 (ながくら しんぱち)
1839-1915 享年76歳。

山南 敬助 (やまなみ けいすけ)
1833-1865 享年33歳。

伊東 甲子太郎 (いとう かしたろう)
1835-1867 享年33歳。

新選組 しんせんぐみ
≪場所≫ 京都市


 新選組の発起人は、庄内藩士・清河八郎であったが、
清河は、江戸から京都へ赴くに至って、尊攘思想をいきなり
ぶち上げ、幕府を出し抜いた。
 もともとは将軍・徳川家茂が京都へ上洛するにあたって、
不穏な空気の漂う京都を警備する目的で幕府が資金を出し
て成り立った浪士一団は、清河八郎の暴走によって、一時
の解散の危機に立たされる。
 その後、清河八郎は江戸に戻され、幕吏によって斬られた
が、近藤勇たち一部の浪士たちはそのまま京都に留まり、
新選組のスポンサー探しに奔走する。
 その後、壬生村の郷士・八木源之丞の家を拠点として、
13名の浪士たちは、見廻組の佐々木唯三郎の取り成しを
得て、京都守護職・松平容保あてに嘆願書を出した。
 この時のメンバーは、
 芹沢 鴨 水戸浪士 (後に八木宅で暗殺)
 近藤 勇 江戸浪士 (後に板橋で処刑)
 土方 歳三 江戸浪士 (後に五稜郭にて戦死)
 沖田 総師 白河浪士 (維新後、結核にて病没)
 藤堂 平助 江戸浪士 (後に油小路で暗殺)
 原田 左之助 伊予松山浪士 (後に上野戦争で戦死)
 永倉 新八 松前浪士 (大正4年まで生きる)
 山南 敬助 仙台浪士 (後に切腹)
 野口 健司 水戸浪士 (後に切腹)
 新見 錦 水戸浪士 (後に切腹)
 平山 五郎 水戸浪士 (後に八木宅にて暗殺)
 平間 重助 水戸浪士 (後に脱隊)
 井上 源三郎 江戸浪士 (後に鳥羽・伏見の戦いで戦死)
 であった。

 新選組は別名・壬生浪と呼ばれ、壬生の屯所に詰める
乱暴者としてはじめは、世間から不評を買っていた。この
不評の主因は、芹沢鴨によるもので、新選組結成前から、
近藤ら浪士たちとのいざこざが耐えなかった問題児であった。
その後、新選組が組織立ってくるに至って、芹沢は障害と
して暗殺されている。
 新選組の厳しい粛清による風紀の刷新がなされたのであり
、幕末動乱にあって、最後の武士らしい秩序立った組織作り
を成したのであった。

 池田屋事件をきっかけに新選組は、好評を博するようになり
、京都の治安を久々に取り戻した英雄として、民衆から喝采を
得ている。その後は、弱腰の幕吏を尻目に新選組の重要度
は増してゆき、鳥羽・伏見の戦いに至っては、近藤・土方ら
は幕府組織でも高官に就くまでになる。
 しかし、幕府はすでに倒壊寸前であり、これを必死に支え
続けた新選組の末路は、悲壮なものでしかなかった。剣術を
武器に勇敢に戦った新選組も鳥羽・伏見の戦いにて、敵の
激しい銃撃によって、勇気をくじかれてしまう。その後は敗退
を繰り返し、明治維新を迎えるに至る。