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沖田 総司 1843-1868
おきた そうし
※或いは、そうじ
享年26歳。
江戸生まれ。
名は、房良。
□父は、沖田林太郎。
総司は、阿部豊後守の江戸下屋敷で生
まれる。
奥州白河藩の脱藩士とされる。
□九歳の時、天然理心流・近藤周助邦武、
周斎の門人となる。
□近藤家を継いだ近藤勇の義弟となり、
剣術を学ぶ。
□天才的な剣術を見せ、わずか十二歳に
して、奥州白河藩指南役と立合い、勝
利する。
□人物像は、背は高く肩の張り上がった色
黒い好青年。ほとんど真面目に成らず、
談笑が絶えなかったとある。
□同じ道場に通う、土方歳三や井上源三
郎、千葉周作の玄武館で北辰一刀流
の目録をもらった藤堂平助、千葉道場
で免許皆伝を取った山南敬助など名
だたる剣豪も総司との手合わせでは、
皆子ども扱いにされたとある。
総司の師匠・近藤勇でさえ、本気で立
ち合ったら総司には負けると認めた、
天才剣豪である。
□天然理心流の根本は、気組にあるとさ
れ、道場で稽古する総司の掛け声は、
1Km先まで聞こえたという。
また、総司は、天才にありがちな教授
下手であったらしく、教えが荒々しく短
気だったため、門弟たちから恐れられ
たという。
□1863年2月、総司は20歳にして、近藤ら
とともに浪士徴募に応じて上洛を果た
す。
□池田屋事変では、沖田総司、近藤勇、
永倉新八、藤堂平助、伜周平(せがれ
しゅうへい)の五人で斬り込む。2時間
余の激闘を演ずる。
総司は、持病の結核により喀血し途
中離脱を余儀なくされる。
□1865年2月、新撰組創立以来の幹部・
山南敬助が離脱。
近江に潜伏する。総司は近藤の命令
でこれを追跡、山南を捕縛。
京都に連行した。
□1868年5月25日、結核の為、没す。
享年26。
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剣の腕前は、新選組随一。
天才剣士として、幕末の嵐に一時の平和をもたらしが、病苦に襲われ、新時代を見ることなく没した。
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