|
山南 敬助 1833-1865
やまなみ けいすけ
享年33歳。
通称、”サンナン”。
名は、知信。
□1833年、奥州仙台藩出身。
仙台藩の上級武士・本多弥門の用人
下級武士と伝えられる。
□北辰一刀流の名手とされるが、どこの
道場で、どれだけの修業期間を経て、
免許皆伝を受けたのか不明。
□1860年、山南は天然理心流の試衛館(
しえいかん)に入門する。
□1861年、近藤勇の天然理心流四代目
就任披露の野試合にて、山南は、赤軍
東之方中軍戦士として活躍する。
□1862年、正月に沖田総司と共に小野路
へ剣術教授の出張を行う。
指導が荒い沖田と違い、山南は丁寧な
指導を行ったといわれる。
□1863年、近藤や芹沢らと京都に入洛を果
たす。
洛外壬生村の郷士・八木為三郎邸を宿
舎として、新撰組を結成する。
壬生浪士隊の幹部として活躍す。
□同年、三月二十六日山南は、近藤、芹沢
らと共に壬生浪士隊の同志・殿内義雄(
とのうちよしお)を天誅に処す。
反目グループの頭領である殿内を斬る
ことで、新撰組の統率を図った。
□同年、初夏。新撰組は、晴れて会津藩預
かりの京都機動警察隊として活動を開
始することとなる。
隊は、近藤勇と芹沢鴨を局長に据え、山
南敬助、土方歳三、新見錦(にいみにし
き)を局長助(副長)として公務に当た
った。
□山南の人物像は、冷徹で恐れられる土方
と違い、屯所近所で評判の「親切者」で
通っていた。
温厚で評判のよい人柄だったと伝える。
□1863年、七月。山南は、岩木升屋という
料亭に押し入った不逞浪士を斬り、京都
守護職・松平容保より八両の恩賞を受
ける。
ちなみに当時の隊士たちが会津藩より
支給された月給は三両であり、破格の
評価を山南は受けていたことになる。
このとき作成した、不逞浪士を斬った山
南の愛刀・赤心沖光(せきしんおきみつ)
を魚拓にした鮮血に染まる押し型の模
写が現存している。
□1863年、八月二十日。山南は近藤や土
方と共に長州浪士の潜伏先を突き止め
、浪士たちと斬り合いの死闘を演じて
いる。
□1863年、九月十八日。芹沢鴨暗殺遂行
に不本意ながら参画する。
この事件以後、山南敬助の名前が新撰
組活動からほとんど記録に記載されなく
なる。
日々、緊迫した状況下で精神が病んで
憂鬱状態となったとする説や愛人との逃
避行動説など色々憶測を呼ぶ。
池田屋事件の際にも名前が出ず、屯所
につめていたとする説も、当時40余人の
隊士にとって、北辰一刀流の名手が出
動しないのも不可思議とされてる。
□1864年、十月。かねてから山南と親交の
あった、深川佐賀町の北進一刀流道場
主・伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が
新撰組に入隊した。
このとき、屯所が壬生から西本願寺に移
転話が持ち上がり、山南がそれを反対し
、隊士たちと決別的な事件が起きていた
とする説がある。
□1865年、二月二十三日。新撰組結成に
当初から参画してきた、新撰組功労者・
山南敬助は、隊規違反の罪で切腹。介
錯は沖田総司といわれる。
名友・伊東甲子太郎は、友の死に際して
四首の歌を読んだとされる。
享年33。
|
|
|
|
|
北辰一刀流の名手として、幕末にその腕前を振るった。
だが、新撰組内部での抗争に疲弊し、ついには、身内に討ち滅ぼされた。
|
|
|
|
|
|