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芹沢 鴨  1830-1863
せりざわ かも
享年34歳。


□1830年、水戸郷士の三男として生ま
  れる。

□1862年、秋ごろ、鴨は自分が人を斬っ
  たことを契機として、新見錦、平山五郎
  、野口健司らと共に江戸に出る。

□1863年、清河八郎の浪士募集に応じる。
  清河は得体の知れない近藤一派の監
  視役として鴨らを付けて京へ行かせる。

□清河らの勤王攘夷宣言が失脚に帰すと
  水戸藩士など多くが江戸に戻ることに
  なった。
  しかし、鴨らは近藤らと共に京に留まる
  ことを決める。

□近藤らと共に新選組を結成する。

□鴨は、外国との貿易で暴利を得ていた
  大和屋庄兵衛の土蔵に大砲を打ち込
  み破壊するという暴挙に出る。

□島津久光が率いる薩摩兵と松平容保
  が率いる会津兵が京都を制圧。
  長州藩士ら過激派を京都から一掃した。
  この際、新選組も参加したものの、鴨の
  態度は極めて人をくったものであり、味
  方の会津兵と一触即発の緊迫した状況
  を作った。

□この事件が起きて数日後、会津本陣から
  近藤らが呼び出された。
  芹沢鴨など反目隊士の排除命令が出
  された。

□まず、近藤、土方らは、新見錦につめよ
  り祇園で切腹させた。
  次に芹沢鴨・平山五郎・平間重助の三
  人が住む宿舎に夜襲をかけ、芹沢、平
  山を斬り捨てた。
  寝ていた芹沢鴨への第一撃目は沖田総
  司であり、手ごたえは有ったものの鴨は
  それにひるまず立ち起き、沖田の顔を素
  手で殴った。
  そうこうしているうちに第二撃目は土方
  歳三であり、これについに鴨も突っ伏し
  絶命した。
  享年33。
  平間重助は混乱の中、逃げのび京より
  脱走した。

□芹沢鴨配下の野口健司も三ヵ月後に隊
  士らに斬られた。

□芹沢鴨の兄・芹沢成幹は水戸から京に出
  てきており、芹沢家代々の秘薬を売って
  いた。芹沢鴨の死後、会津藩から数百
  錠の丸薬を注文され、300両の暴利を得
  たという。丸薬の代金としては巨額すぎ
  ることから、弟・鴨の暗殺に対する示談
  金だったとする説がある。




 常に人々の度肝を抜く突飛で豪快な行動を取った。
 新撰組随一の暴れ者として、その名を歴史に刻んだ。