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伊東 甲子太郎 1835-1867
いとう かしたろう
※或いは、きねたろう
享年33歳。
名は、大蔵。
□1835年、常陸志築(しづく)藩士・鈴木
忠明の長男として誕生。
□志築藩は、8100石の代官に毛が生えた
程度の藩であり、周囲は徳川一門の譜
代大名に対して、外様大名だっただけ
にいつ取り潰しにあうかわからなかっ
た。
そのためか、伊東は脱藩し、水戸に出て
渡辺崋山の友人・金子健四郎の道場に
入門。
神道無念流を学ぶ。
また、水戸学に接し勤王思想の影響を
受けていた模様。
□結成以来の激戦をかいくぐってきた新撰
組も、日々の戦闘で負傷者が続出し、
それにも増して規律違反者が相次ぎ、
最盛期に200余人いた隊士も100人を割
る事態となった。
このような状況下で、隊士増員の必要に
迫られた近藤は、新規隊員の確保のた
め、江戸に下る。
□北辰一刀流の使い手である新選組隊士・
藤堂平助が同門の誼で伊東に入隊を奨
める。
近藤も伊東の知識人にして弁舌爽やか
、勤王と攘夷を悠然と語る伊東を気に入
り、入隊後は、破格の待遇を約束する。
□かくして、伊東は実弟・鈴木美樹三郎ら七
名の同志と共に江戸を1864年十一月に
出立した。
京へ入洛すると伊東は干支(えと)が甲
子(きのえね)であるとにちなんで甲子
太郎と改名する。
□入隊を果たした甲子太郎は、新選組の再
編成により、参謀職に就任した。
実弟の鈴木美樹三郎も九番隊隊長に抜
擢された。
□1866年第二次長州征伐の際、近藤と伊
東の確執が表面化する。
長州征伐にあたって、新選組は、戦闘経
験が豊富であることを買われて情報収
集の任務に就いた。
近藤は、勤王の知識が豊富な伊東を引
き連れ諜報活動を行う。
しかし、このとき数多くの長州藩活動家
と接することとなり、伊東は倒幕思想に
傾倒していった。
帰京後の伊東の行動は倒幕派との急接
近であった。
佐幕派の近藤ら新選組と当然、確執が
生まれる。
□1867年、三月。伊東は、孝明天皇陵の衛
士(えじ)という名目で、実弟・鈴木美樹
三郎ら15名と共に脱盟する。
新選組隊士の中にはまだ、伊東の同志
が数十名残留していた。
新撰組の内部崩壊を狙っていたとも言
われている。
□1867年、六月。伊東らは、東山高台寺の
塔頭月真院を拠点として高台寺党を
結成。
倒幕派の元新選組として薩摩藩・大久
保一蔵らと密接な交渉を重ね薩摩藩か
ら勤王遊説の為の出張旅費や給与の大
半を出してもらう。
新撰組を脱し、贅沢な暮らしに身を投じ
た反面、いつ土方ら過激派に命を狙わ
れるかわからず、皆いつも刀を抱いて寝
ていたといわれる。
□同年、六月。伊東らに内応する新選組隊
士ら四名を土方らに天誅される事件が
起きる。
□同年、十一月。近藤が高台寺党に送り込
んだスパイ・斎藤一(さいとうはじめ)か
ら、近藤を暗殺する計画がでているとい
う知らせを受けた土方は、近藤の名で伊
東を招待すると称して呼び出しを掛け
る。
伊東は、側近の反対を押し切り、「近藤
も一廉の人物である。よもや自分を殺す
ことはあるまい。」と述べ一人で出かけ
ていった。
酒宴の帰り道、伊東は土方ら隊士の天
誅にあい死す。
享年33。
俗に「油小路の変」といわれる。
伊東の死により、高台寺党は事実上、
解党の憂き目を見る。
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新時代で活躍を夢見て、新撰組に入隊。
剣士ならが、策士として政局に暗躍したが、局長との対立から身を滅ぼした。
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