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土方 歳三 1835-1869
ひじかた としぞう
享年35歳。
□1835年、武州多摩郡桑田村石田に
生まれる。
父は土方隼人義諄、母は恵津。
歳三は六人兄弟の末っ子で、兄を
為二郎、喜六、大作、姉を周、のぶ
といった。
□父・義諄は歳三の誕生を見ずに没し
、母・恵津も1840年に四十七歳で
没した。
幼い歳三は兄・喜六夫婦の手で育
てられたという。
□1846年、歳三が十一歳の時、江戸
上野の伊藤松坂屋へ奉公に出さ
れた。
家が貧しさあまりの”口減らし”とは
違い、行儀見習いのためである。
土方家は、郷里で「お大尽」と呼ば
れる富農である。
□番頭とのつまらぬ喧嘩で松坂屋を飛
び出し家に戻った歳三は、十七歳の
時、再び伝馬町の呉服屋へ奉公
に出されたが女中と関係を持ったこ
とで暇を出される。
□土方家は、農業のほかに薬売りをし
ており、歳三も薬売りを手伝う傍ら、
方々でさまざまな道場で剣術を磨い
ていた模様。
□歳三の姉・のぶの嫁ぎ先である日野
宿寄場名主の佐藤彦五郎は、勇の
養父・近藤周助に天然理心流を学
び、自宅に道場を開くほど熱心だった。
もちろん、歳三もこの熱心な親族の
道場に出入りしており、江戸から出
稽古に来ていた近藤勇と知り合う。
□1859年、三月九日。歳三は二十五歳
で、天然理心流に入門した。天然理
心流の免許皆伝には、通常5年以上
かかるとされており、歳三も免許皆伝
を得ずに、京都で活躍することになる。
□1863年、二月四日。出羽郷士清河八郎
の策謀で持ち上がった将軍護衛の浪士
組に参加。
歳三は、近藤道場・試衛館の仲間、近
藤勇、山南敬助、沖田総司、永倉新八、
原田左之助、藤堂平助と共に六番組
西恭助組に配属される。
□京都に就いた一行は、決起者・清河八
郎の尊王攘夷宣言に異を唱え、清河
八郎と決別。
あくまでも佐幕派に徹する壬生浪士組
を結成するに至る。
京都守護職を務める会津藩の援助を
得る。
□土方歳三の人物像は、とにかくモテた
という。
「役者のような男」「一個の美男子と申
すべき」などと歳三に実際にあった人
の評がこれである。
また、自分がモテることを自慢する話
も残っている。
日野の理心流門人一同に京都の歳三
から小包が届けられた。小包の手紙に
は「諸君に素晴らしいものを送る」とあ
った。門人一同ワクワクしながら包み
を開けてみると、十数通もの手紙が入
っている。
読んでみると、どれもが京都や大坂の
遊郭娼婦が歳三に宛てた熱烈な恋文
だったという。
□芹沢鴨暗殺計画に参加した歳三は、沖
田の最初の一撃で討ち損じた芹沢に
第二撃を見舞い、見事首級を挙げて
いる。
□1864年、新選組は、寺田屋事件後、隊
士募集を行い150名を越す大所帯と
なった。
寺田屋事件の時は、34名であったと
されるだけに大部隊の編成とともに
統率の意味で「局中法度」が出された。
隊規の内容は、士道不覚悟はもとより
、脱隊、金策、訴訟が禁止され、後ろ
傷は敵前逃亡とみなされ、
これらに違反したものは全て名誉の切
腹とされた。
この発布以来、歳三も変化し、手紙の
内容もそれまでは多弁で、慢心だった
文章から事務的でしっかりとした文章
に変わっている。
副長となった歳三は、月収が40両とい
う高給取りとなり、当時の貧しい武士
たちから見れば、大出世したことに
なる。
□1868年、一月三日、鳥羽伏見の戦いが
勃発する。
最前線の伏見奉行所に布陣していた
新選組は、歳三が指揮を執っていた。
前月十八日に分派活動のかどで誅殺
された伊東甲子太郎の仲間に狙撃さ
れ負傷した近藤は、大阪城に退いて
いた。
錦の御旗が翻る官軍を前に幕府軍は
総崩れし、歳三も100余人の隊士を率
いて、大坂城へ退却。
大坂城で再起を図ろうとするも、大坂 城に居るはずの十五代将軍・徳川慶
喜が密かに海路江戸に退いたことを
知り、愕然とする。
堅固な大坂城を基に決戦を挑もうとす
る幕府諸隊に対し、将軍命令は天皇
への恭順を示し解散せよというもの
だった。
江戸だけでも死守しようという考えで
一路新選組は江戸に向かう。
□江戸に着いた歳三は、佐倉藩士・依田
学海に鳥羽・伏見の戦い模様を尋ね
られ、「もはや槍や刀では戦争は成り
立ちません」といったという。
この時、歳三は、近代兵器を手にする
以外、互角に戦うことはできないと考
えていたことだろう。
□1868年、三月一日。新選組は再起を決
して甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)
に改め、甲府城に向かう。
しかし、官軍東山道軍の進軍は早く、
甲府城い着けず。
同年同月六日に勝沼村で官軍との会
戦を見るも、歳三の援軍依頼を受けて
いた幕府軍菜葉隊と
八王子千人隊は動かず、援軍無く甲
陽鎮撫隊は近代兵器に身を包む官軍
の前に各個撃破されていった。
この戦いで近藤勇もはじめて近代戦に
参戦したが、あまりの敗北に戦意を
失う。
□敗北後、再起を図るべく綾瀬の五兵衛
新田に再起の場を求めたものの官軍
の察知は素早く、包囲されてしまう。
近藤は切腹を覚悟するも土方の勧め
で官軍に投降する。が、官軍は近藤を
罪人として斬首した。
歳三は、この間数名の隊士と共に江
戸に向かい、勝海舟に近藤勇の助命
を嘆願するが失敗に終る。
仕方なく歳三は、国府台に駐屯中の
大鳥圭介が率いる旧幕府軍に加わり
、北関東を転戦し、しぶとく官軍に抵抗
した。
□会津藩鶴ヶ城に入った歳三は、城を枕
に討死を覚悟するが鶴ヶ城も1000発
以上の砲撃の前に降伏。
歳三は密かに会津を離れる。
□1868年、十月。今度は榎本武揚が率い
る幕府が誇った幕府艦隊に合流し、
一行は蝦夷に入る。
□榎本武揚を首領に新政府を樹立。歳三
は、陸軍奉行並となり、五稜郭、松前
城を攻略し、有能な指揮官ぶりを発揮
した。
□1869年、四月九日。蝦夷地の春到来を
待っていた官軍が上陸を開始。
歳三は、二股口を防衛し、敗北一色の
榎本軍で唯一勝利を重ねた。十七日間
の官軍との攻防の末、退路が絶たれる
恐れができたため、二股を捨て五稜郭
に戻る。
□榎本軍は、五稜郭と函館湾の弁天台場
だけとなった。
弁天台場は新選組隊士が死守してい
たが、官軍の侵攻により孤立無援と
なった。
これを見た歳三は、救出部隊を編成。
最前線で陣頭指揮を執り、敗走兵を
前線に戻す役目を負った。
激しい激戦の中、銃弾が歳三の腹部
に命中し、そのまま落命。
享年35。
榎本軍指揮官で唯一の戦死となった。
榎本軍の降伏後、戦死者の中から土
方歳三の遺体は発見されなかったと
いう。
戦後、榎本軍の指揮官は有能な指揮
能力を認められ全員明治政府の軍役
職に就任した。
それだけに、函館戦争で無敗を誇った
土方歳三の戦死は惜しまれてならない。
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”役者のようないい男”と評判を得た新選 組一の優男(やさおとこ)。
子供の頃は、色白で気弱な気質であった ため、あの男には人など斬れぬといわれ ていた。しかし、300人の隊士を厳しく律 したのが”鬼の歳三”であり、隊士たちにと って、歳三は畏敬の存在であった。
池田屋事件をはじめ新選組の残虐な誅 殺は、全て歳三、指揮下で行われた。
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