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松平 容保  1835-1893
(まつだいら かたもり)
享年59歳。
名称:_之充、若桜守、肥後守
号:祐堂、芳山


□美濃高須3万石藩主・松平義建(よし
  たけ)の六男として誕生。
  松平容保は、尾張徳川家の分家
  である美濃・高須潘から会津藩へと
  迎えられた養子であった。

  容保が尾張徳川家の出身という事で
  幕府が容保を京都守護職へ就任させ
  ようと要請したとき、彼は、これを拒む
  ことができなかった。
  徳川家一門であったことから、困難な
  京都守護職という大役を引き受けた
  と思われる。

□1846年、四月。12歳で会津藩松平家
  23万石の婿養子となる。

□1852年、会津藩主・松平容敬(かたた
  か)が病没し、容保は18歳で家督を
  継ぐこととなる。

□1856年、九月。容保の妻・敏姫が若
  干18歳にて病没す。

□1862年、一橋慶喜と松平春嶽が幕府
  権力を掌握すると、新たに設けた京
  都守護職に容保が就くように要請が
  くる。
  容保の側近・西郷頼母は、「薪を背
  負うて火の中に飛び込むが如し」と称
  して、京都守護職に就く危険性を説
  いた。

  再三病気を理由に固辞した容保だっ
  たが、藩祖・保科正之の家訓、「将軍
  に忠誠を尽くすことを藩の使命とし、
  徳川宗家の盛衰存亡を共にすること
  を家風とする」その内容を松平春嶽に
  問いただされ、ついに容保は京都守護
  職に就任した。

  死を覚悟した京都守護職就任の意気
  込みは凄まじく、京都における幕藩体
  制維持の急先鋒として大いに活躍
  する。

  公武合体を理想とし、攘夷過激派の浪
  士を京より一掃すると、孝明天皇より
  信任を得て、宸翰(しんかん-帝の手
  紙)や御製(ぎょせい)をくだされた。

□蛤御門の変では、反乱した長州藩軍
  を殲滅。

□戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の中
  心となり、討幕軍に徹底抗戦す。

□会津若松城にこもって明治政府軍と
  激戦するも降伏。

□のち政府から許され、日光東照宮
  宮司に就く。




 京都守護職を勤め、京都の町で暗躍した暗殺劇に終止符を打った。
 会薩同盟を経て、公武合体を推進する先頭を担ったが、政局交代で運が転換する。
 会津戦争で最後まで武士の意地を見せつけたが、武運なく敗北した。