剣客が荒れ狂う京都治安維持を掲げ、新選組を組織。
戊辰戦争では東国の列藩同盟を結び、激戦す。

藩重臣として活躍。容保を補佐し、戊辰戦争の際も
勇敢に戦う。

会津藩家老として、若き当主・容保を補佐し、難局に
あたった。会津戦争にて主君の身代わりとなって死す。

主君・容保が京都守護職就任する際に会津藩の京都入洛
の準備に奔走。会津戦争では防戦一方を強いられ、自刃す。

藩主・容保の京都守護職就任準備に奔走す。
大政奉還後、恭順論を展開し、幽閉の身となる。

禁門の変の軍功にて、”会津藩に山本あり”と知られる。
鳥羽伏見合戦で敵将を感服させたほどの勇将振りを見せた。

”東の西郷隆盛”と評された人望厚い武人。
越後を越えてくる官軍に対し、迎撃し軍功を挙げた。

江戸など各地へ遊学し、諸国事情を視察。8・18政変で
は薩摩と”会薩同盟”を締結し、公武合体政権樹立に貢献す。

会津藩に近代兵器の導入を敢行し、官軍来襲に備えた。
政務総督に就き、采配を振るい、会津戦争を乗り切る。

松平 容保 (まつだいら かたもり)
1835-1893 享年59歳。会津藩主。

西郷 頼母 (さいごう たのも)
1830-1903 享年74歳。会津藩家老。

萱野 権兵衛 (かやの ごんべえ)
1828-1869 享年42歳。会津藩家老。

田中 土佐 (たなか とさ)
1820-1868 享年49歳。会津藩家老。

神保 修理 (じんぼ しゅり)
会津藩重臣。

山本 覚馬 (やまもと かくま)
会津藩士。

佐川 官兵衛 (さがわ かんべえ)
1831-1877 享年47歳。会津藩重臣。

秋月 悌次郎 (あきづき ていじろう)
1824-1901 享年78歳。会津藩重臣。

梶原 平馬 (かじわら へいま)
1842-1889 享年48歳。会津藩重臣。

会津藩 あいづはん
≪場所≫ 会津若松市


 会津藩の基礎は、蘆名氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、
保科氏、そして、松平氏へと続く領主の入れ代わり治世
によって、成された。
 会津藩松平氏の藩祖・保科正之は、二代将軍・徳川
秀忠の庶子で、実子とは認められずに幼い頃より、下野
して、信州・高遠で育った。
 秀忠死後、異母兄の三代将軍・徳川家光の特別の引
き立てによって、徳川一門として厚遇を受けるようになり
、家光没後は、その幕政を取り仕切り、幕府の治世を
磐石なものとした功労者となった。
 その正之の末裔が会津藩九代藩主・松平容保である。
容保は藩祖・正之の訓戒を守り、倒れ行く幕府を徹底的
に補佐する立場を取ったのである。

 1862年(文久2年)夏に容保は、一橋慶喜や松平慶永
から懇請されて、ついに京都守護職に任官した。
家老の西郷頼母は、諸藩の事情を鑑みて、京都守護職
の任官を辞退するよう進言していたが、容保は藩祖の
訓戒を重んじて、徹底佐幕の決断を下したのである。

 禁門の変では、会津藩は薩摩藩とともに長州藩を締め
出し、宮廷の警護を担当。時代の波を過激尊攘から公武
合体という路線に移し変えた。
 公武合体の立役者となった会津藩ではあったが、肝心
の雄藩大名の合議制は、うまく行かず、公武合体は機能
することなく崩壊している。
 このために過激尊攘派は、開明尊皇の姿勢へと変化
させ、統一国家を目指すようになり、当然の如く、公武合
体や佐幕派諸藩は、排除の対象とされ、討幕運動に
火の手が上がったのである。

 鳥羽・伏見の戦いで大敗を喫した旧幕府軍は、大坂
へと逃げ戻り、再起を謀ろうとしたが、肝心の元将軍・
徳川慶喜が戦闘すべきでないことを悟って、密かに大坂
城を抜け出て、江戸へと逃避した。
 この時、容保は実弟の松平定敬とともに徹底抗戦を
主張したが、慶喜に入れられず、慶喜の命令にて、大坂
城を後にしている。
 江戸では今後の身の降り方を議論したが、結局は徹底
抗戦は排除され、勝海舟が主張する恭順に決した。
慶喜は上野の寛永寺へと引きこもり、江戸の無血開城を
ひたすら願う日々を送る。

 一方、容保は朝敵の汚名をかぶった以上、官軍にわが
会津藩は蹂躙される屈辱を味わうことは必死と判断し、
江戸や新潟で大量の武器弾薬を運び出したり、購入した
りして戦争準備に取り掛かった。
 徹底抗戦の構えを見せる会津藩であったが、すでに
天皇・朝廷に敵対するべきではないとする考えが一般論
を占めて、東北諸藩はみな官軍に協力する姿勢を見せ
ていた。
 しかし、徹底抗戦を貫く会津藩に同情的である東北諸
藩は、会合を開いて議論し、会津藩を助命してくれるよう
嘆願する書状を新政府側に提示した。
 しかし、戦功にはやる官軍諸将はこれを聞き入れず。
厳しい条件を下して、会津藩の恭順を受け付けない。
業を煮やした仙台藩がついに爆発し、官軍参謀の世良
修蔵を斬殺して、徹底抗戦に踏み切った。
 会津藩を助けるべく、仙台藩は米沢藩とともに同盟の
盟主を買って出て、奥羽越列藩同盟が成立している。
列藩同盟側は、官軍に対して、天皇・朝廷には協力する
が、その権威を傘に着る薩長の言うことは聞かないとい
う主張を成している。

 こうして、徹底抗戦の枠組みが出来上がると、会津藩
は北越に進軍してきた官軍を迎撃すべく、長岡藩救助
のための会津藩軍を派兵している。
 北越戦争は激しい激戦を展開し、一時期は官軍を退け
るほどの優勢振りを現した。しかし、次第に軍資金や物
資の優劣がはっきりしてくると列藩同盟側の士気は下が
り、防戦にも限界を成して、ついに敗退へと向かっていく
のであった。

 北越戦争に続いて会津戦争でも会津藩軍は、激しく
官軍と戦った。白虎隊の悲劇も生まれる壮絶な戦いと
なり、会津藩の城下町である若松へと官軍がなだれこん
でくると会津藩士の家族は、城に非難した。
 その中で、城に非難せずに自刃して果てる家族もいて
、悲壮さは一層、強まった。こうして、激戦に次ぐ激戦で、
疲弊した会津藩は、列藩同盟の盟主である米沢藩と仙台
藩が相次いで、官軍へ降伏し、孤立無援と化した。
 こうして、会津藩もついに官軍へ降伏を成し、奥羽戦争
は集結へと向かうのであった。この激しい激戦で会津藩
は甚大な被害をこうむり、新政府側からも不評を買う結果
となったが、この新政府への気骨さと強じんな精神力は
高く買われ、その後の新政府の中で、警察などへ多く採
用されるなど進展を見せている。
 また、外圧に屈しない強じんな精神力は、その後の自由
民権運動に大いに活躍するようになり、自民党運動の発
祥を成すのであった。