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秋月 悌次郎
あきづき ていじろう
1824-1901
享年78歳。
名は、胤永(かずひさ)。
字は、子錫(ししゃく)。
号は、韋軒(いけん)。
□1824年、会津藩士・丸山胤道(まるや
まかずみち)の次男として会津若松城下
で誕生。
家禄は兄・胤昌(かずまさ)が継いだの
で、悌次郎は後に別家を立てて秋月姓
を称す。
□幼少より学問を好み、1833年、悌次郎10
歳にして藩校・日新館(にっしんかん)に
入学。
悌次郎15歳にして弓馬刀槍の諸術を
学ぶ。
この頃から藩儒・高津に詩を学ぶ。
□悌次郎19歳にして江戸に上り、藩儒・牧
原半陶(まきはらはんとう)に経学を受け
、ついで松平謹次郎慎斎(まつだいらき
んじろうしんさい)の麹渓(きつけい)書
院に入塾。
□1846年、悌次郎は幕府の昌平坂学問所
書生寮に入り、10年間江戸に滞在し、
勉学に励んだ。
□1856年、西国諸藩を歴遊して諸国事情
を把握しつつ、1860年江戸に帰還す。
このときの歴遊見聞をまとめたのが『観
光集(かんこうしゅう)』全七巻である。
□1862年、藩主・松平容保が京都守護職に
就任すると、悌次郎は広沢安任(ひろさ
わやすとう)らとともに藩の公用方を命じ
られ、藩主一行の上洛準備のために先
んじて京都に入った。
□1863年8月13日、悌次郎のもとに薩摩藩
士・高崎佐太郎正風(たかさきさたろうま
さかぜ)が訪ねてきた。
悌次郎をはじめ会津藩のもので高崎を
知っているものは誰もいなかったが、悌
次郎が先年、薩摩にも歴遊していたので
、高崎は悌次郎のことを知っていたのだ
った。
おの二人の周旋により、薩摩・会津両藩
は公武一和の点で合致し、”会薩同盟”
が成立した。
これにより8月18日の政変で長州藩を京
都から追放し、尊攘急進派の公卿たちを
禁裏(きんり)から締め出せたのである。
□8・18の政変後、悌次郎は藩内の佐幕派
によって蝦夷地に左遷されていたが、
1867年3月、呼び戻されて京都に入
った。
□戊辰戦争では、軍事奉行添役(そえやく)
を命じられ、各地を転戦した。実戦に参
加することはなかったものの会津藩軍事
面での第二位の立場にいたため、戦後
戦争遂行責任を問われ、重罪に処さ
れた。
□会津藩が官軍に降伏開城するにあたっ
て、悌次郎は、手代木直右衛門勝任(て
しろぎすぐえもんかつとう)とともに使者
の役目を果たし、官軍指揮官・板垣退助
のもとに赴いている。
□戦後、猪苗代に謹慎していた悌次郎は、
長州の奥平謙輔(おくだいらけんすけ)
から手紙をもらい、彼に会うために密か
に謹慎所から抜け出て越後に発した。
この時、悌次郎が作ったのが有名な『行
くに輿無し、帰るに家無し』ではじまる詩
(排律)である。
□1868年12月、悌次郎は終身禁固の刑と
なり、各地に移され、幽閉された。
□1873年1月、特赦(とくしゃ)によって自由
の身となる。
同年3月、明治政府の左院少議生として
出仕し、諸官を経た。
□1893〜1898年まで第五高等学校の教授
として熊本に居住。
この時、同僚であった小泉八雲(こいず
みやくも/ラフカディオ・ハーン)は悌次郎
を”神のような人”と評した。
□晩年の悌次郎は、東京に移住し、1901年
1月5日、病没した。
享年78歳。
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会薩同盟結成の立役者を演じた。諸藩の実情に詳しく、会津藩にとっては、頼れる有能な外交官として活躍した。
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