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梶原 平馬
かじわら へいま
1842-1889
享年48歳。


名は、悌彦(ちかひこ)、景武(かげたけ)。

□会津藩家老格・内藤信順(ないとうの
  ぶのり)の子として生まれる。
  内藤家は代々、会津藩で家老格の家格
  であった。

  平馬は最初、内藤悌彦と名乗った。
  後に梶原健之助景保(かじわらたけのす
  けかげやす)の養子となり、梶原平馬と
  名乗る。
  平馬は、会津藩最後の首席家老で、奥
  羽列藩同盟の中心人物となった。

□平馬の幼少期は、泣き虫で引っ込み思案
  、剣術の稽古を好まず、本の虫となって
  いたので、父兄からその将来を心配さ
  れた。
  しかし、10歳をすぎることになると剣術、
  弓術、水練とどれも人並みはずれて上
  手になり、内向的から外交的な性格へと
  変貌し、雄弁な青年へと成長してい
  った。

□1860年3月17日、平馬19歳にして山川重
  固(やまかわしげかた)の長女・二葉(ふ
  たば)を娶る。

□1867年、平馬は会津藩首席家老となり、
  京都守護職を勤める主君・松平容保とと
  もに京都で攘夷急進派と激しく戦った。

□鳥羽・伏見の戦い後、平馬は横浜に居る
  プロシア出身のシュネル兄弟から西洋兵
  器購入を行い、会津藩軍の軍備増強を
  図った。

□平馬を中心とする奥羽列藩同盟が結成
  され、官軍到来に備えた。
  平馬は鶴ヶ城本丸で主君・松平容保を
  補佐する政務総督に就き、采配を振
  るう。

□鶴ヶ城が官軍の手に陥落すると、平馬は
  幽閉生活を送り、1871年釈放され、青森
  県庁庶務課課長に就任した。
  が、2ヶ月で退職し、新天地・北海道に渡
  り、晩年まで過ごした。
  1889年3月23日、雄才を再び世に現すこ
  となく病没。

  享年48歳。




 会津藩家老として、困難に直面する藩政に果敢に立ち向かった。