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西郷 頼母
さいごう たのも
1830-1903
享年74歳。
諱:近悳


□西郷頼母は、会津藩の筆頭家老であり、
  西郷家は、藩祖・保科正之以来、松平家
  と関係が深かった。
  養子として、会津藩に入り、九代藩主と
  なった、松平容保よりも、会津藩主の血
  筋が濃かったという藩主血統の近縁で
  あった。

□会津藩家老を務め、会津藩に京都守護
  職の任命が下ると、国内情勢を鑑みて
  これを固辞することを主張。

□しかし、松平春嶽が藩祖・保科正之が定
  めた藩訓を指摘し、徳川宗家と盛衰を
  共にすることや将軍忠誠の精神を問い
  ただされ、やむなく許諾にいたる。

□京都守護により、孝明天皇からの信任
  を得たことや蛤御門の政変での会津藩
  の活躍は目覚しく、佐幕派筆頭の雄藩
  になる。

  しかし、薩摩藩の京都離反を境に流れ
  が変わりだす。
  徳川家茂の死去と孝明天皇の崩御と
  立て続けに後ろだてを失った会津藩は
  、次第に政治の中心からそれだす。

  薩長同盟を契機に倒幕派の烈風を感じ
  た頼母は、薩長に帰順することが肝要
  と進言するも藩主・松平容保に聞き入
  れられず。
  やむなく鳥羽伏見の戦いに参戦する。

□会津藩の本拠・鶴ヶ城籠城戦では、
  会津白虎隊が飯盛山で自決した同日、
  西郷頼母の屋敷でも頼母の一族が
  壮絶な自決を行った。
  頼母の家族・親戚など合計21人が屋敷
  で自決するという悲劇が起った。

□旧幕府の敗戦の中、鶴ヶ城篭城の激戦
  をかいくぐった頼母は、榎本武揚の新
  政府樹立に参画。
  函館戦争に参軍するも敗北し、捕らえ
  られた。
  のち、助命され、静かな晩生を送る。
  余生の中で、頼母は、自叙伝「栖雲記」
  を書き残している。
  敗軍の将としての責めを生涯負い続
  けた、会津人の誇りと義務を守り通し
  、その波瀾万丈の生涯を閉じた。




 会津藩家老として、難局に当たる藩主・松平容保を補佐した。