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佐川 官兵衛
さがわ かんべえ
1831-1877
享年47歳。


名は、勝(すぐれ)、直清(なおきよ)。
号は、残月(ざんげつ)。

□1831年、会津藩物頭(ものがしら)・佐川
  幸右衛門直道(さがわこうえもんなおみ
  ち)の嫡男として誕生。
  佐川家は300石の家禄を持つ家格。
  ”知恵山川、鬼佐川・・・・”とうたわれた
  ほどの猛将。
  山川大蔵(やまかわおおくら・後に浩)が
  後世、「佐川の人望は薩摩における西
  郷のようだ」と述べたことからも佐川は軍
  略の才に長け、多くの藩士から慕われて
  いた。

□佐川は直情的な性格であるが信義に厚
  く、若い頃から武芸に励み、一刀流溝口
  派の師範で”鬼神”として恐れられた町
  野忠之進重治(まちのちゅうのしんしげ
  はる)から剣術を学び、会得した。

□1860年、江戸詰の火消頭を務めていた
  佐川は、ある日幕府の定火消と喧嘩と
  なり、旗本一人を斬り捨ててしまった。
  このため、知行300石のうち、100石を減
  禄され、国許会津で謹慎処分を命じら
  れた。
  謹慎処分の間、武人の佐川は、智勇兼
  備を目指して、学問に励んだ。

□1865年、京都守護職を勤めていた主君・
  松平容保から佐川は召し出され、300石
  に復禄して物頭と学校奉行を兼ねた。

  また、新たに会津藩指揮下で組織され
  た別選組(べつせんぐみ)の隊長に就任
  した。

□鳥羽・伏見の戦いに佐川は別選組隊長
  として幕府軍に参軍。
  しかし、鉄砲を持たない別選組では西洋
  軍備を整えた薩長軍にはかなわず、奮
  戦も戦果なく敗退した。
  この時、佐川は顔面を弾丸がかすめ、
  目を負傷した。
  戦場から離脱した佐川は、大坂城に入り
  、再起の準備をした。
  その最中に元将軍・徳川慶喜に召し出さ
  れ、佐川の武勇を見込んで伏見方面に
  おける旧幕府軍の総督に任ぜられた。

□慶喜が船で大坂城から江戸へと脱出す
  ると佐川は旧幕府軍を率いて、陸路和
  歌山へ至り、官軍と戦う事無く、江戸へ
  無事帰還した。

□4月19日、佐川は朱雀(すざく)四番士中
  隊を率いて、越後水原に出陣し、官軍を
  迎え撃った。

  奥羽列藩同盟で会津藩と同盟を結んで
  いた長岡藩の救援に向かった形となり、
  長岡藩軍総督・河井継之助とたびたび
  軍議を開いた。
  継之助とはうまが合わなかったものの互
  いに勇将の才覚を認め合い協力して官
  軍と勇敢に戦った。

□北上してきた官軍は、薩摩藩士・黒田清
  隆、長州藩士・山県有朋の率いる部隊
  が越後に迫り、土佐藩の軍監・岩村精一
  郎は尾張、松代、上田等の諸藩の兵を
  率いて信濃より越後高田に侵攻した。

  佐川はこれら北上官軍と各地で転戦し、
  特に片貝の戦いでは、薩摩、長州、大垣
  などの連合官軍と接戦となり、勝利を収
  めた。
  越後全土で官軍と旧幕府軍の激戦は繰
  り広げられたが、全体で官軍6割、旧幕
  府軍4割という勝率で時節は進んだ。

  三条に布陣していた佐川に主君・松平
  容保から急きょ帰還命令が出され、佐川
  は単身会津へ戻った。中士隊隊長の後
  任には町野源之助主水(まちのげんの
  すけもんど)が就任した。

□会津に立ち戻った佐川に、勇戦勝利めざ
  ましいと賞賛され、400石の加増と若年
  寄に昇進。ついで300石を追贈されて
  1000石の家老格に就くという破格の出
  世待遇となった。

□会津での諸侯からの礼賛を受けつつ、戦
  場に立ち戻った佐川は、8月29日の長命
  寺の戦いに臨んだ。

  この戦いから佐川は一部隊隊長から全
  軍統括権限をもつ総督となり、存分にそ
  の軍才を発揮する地位を得ていた。
  官軍優勢の戦況は相変わらずであった
  が、戦況打開を目指して、この戦いでは
  兵士全員に対し、決死の覚悟を求め、各
  自法号と「慶応四年辰年八月二十九日
  戦死」と書いた紙片を懐に入れさせて出
  陣させた。

  官軍、旧幕府軍の両軍は一進一退の息
  つく暇もないほどの激戦を極め、壮絶な
  戦死者が続出した。
  銃器・大砲などの武器を欠乏していた旧
  幕府軍は、槍弓を手にして官軍と勇敢に
  戦った。

  戦死者は170名を超え、負傷者は数え切
  れないほど出た。
  佐川はやむなく退却を決意。退却後、軍
  を再編させて高田・田島を転戦した。
  しかし、本拠地・会津鶴ヶ城が降伏陥落
  すると、やむなく武装解除をし、塩川に
  て謹慎処分となった。

  12月、佐川は明治政府から呼び出され、
  秋月悌次郎とともに上京。
  佐川は会津藩の戦争責任者として、藩
  主父子に代わって自分を処断してくれる
  よう懇請したが、首謀者として切腹を命
  じられたのは先任家老・萱野権兵衛長
  修(かやのごんべえながはる)であった。

□1870年、斗南藩(となみ)の立藩とともに
  佐川は赦され、斗南に移住した。

□1874年、旧藩士たちの生計の道を開くた
  め、佐川は300名を率いて上京。招請の
  あった警視庁に大警部として奉職した。

□1877年2月、西南戦争が勃発し、この鎮
  圧軍に佐川は従軍。豊後口警視隊の一
  番小隊長兼指揮長として九州に入る。
  同年3月18日、熊本阿蘇郡の二重峠付
  近において薩摩反乱軍と激戦におよび
  、佐川は三発の銃弾を身に浴びて、壮
  烈な戦死を遂げた。

  享年47歳。




 ”東の西郷”とまで後世に呼ばれた、頼れる豪傑。
 会津戦争では、猛勇ぶりを見せ、維新後は明治政府の大警部にまで出世した。